武蔵坊弁慶の三大出生地は、和歌山県田辺市、三重県紀宝町鮒田、そして島根県松江市長海町である。同じ人物が三か所で生まれるわけがないが、それぞれに伝承が存在する。もっとも有名なのは、駅前に銅像がある田辺市だ。「弁慶生誕地の碑」や「弁慶産湯の井戸」などゆかりの地もある。紀宝町鮒田には「弁慶産屋の楠跡」がある。松江市長海町には何があるのだろうか。さっそく行ってみよう。
松江市長海町に「弁慶の森」がある。車道から少し歩いて森へ入ると広場があり、そこには物語の世界に迷い込んだような雰囲気が広がる。
小さな祠のそばに説明板があるので読んでみよう。
この森は、母・弁吉が神様のお告げに従いこの地に来て山伏に姿を変えた天狗と結ばれ弁太(後の弁慶)を産み育てたので「弁慶の森」と呼ばれています。弁吉を祀った「弁吉女霊社」は安産や子育ての守り神として信仰を集め、長刀を供えて祈る習わしがあります。毎年七月一日には「弁吉女霊社祭」が行われています。
確かに長刀の形をしたものが供えられている。母の名を弁吉、弁慶の幼名は弁太という。なんだか分かりやすい。もう少し詳しい物語が日本の伝説48『出雲・石見の伝説』(角川書店)に紹介されているので読んでみよう。
弁慶の母は紀州、つまり今の和歌山県田辺市の誕象(たんしょう)の娘で弁吉女(べんきちめ)という名であった。彼女は男まさりの大女で、その上不美人ときていたので、年ごろになっても婿のなり手がなく、父は出雲の縁結びの神にすがるより道はないと考え、彼女を出雲へ旅立たせた。やがて出雲へ着いた弁吉女は、安来市西松井町にある出雲路幸神社に参拝し、良縁を祈った。祈りが神に通じたのか、社前の小川で好青年に出会い契りを結んだ。逢初(あいそめ)川と呼ばれている所である。ほどなく彼女は中海のほとり、今の松江市本庄町野原に住むことになる。
こうして身ごもった弁吉は十三か月で弁慶を生んだ。弁太は鬼のような面構えで、髪は肩まであり、歯も生えそろっていたという。ホラー以外の何ものでもない。だが、驚くことでもない。これは異常出生譚という伝説の一種で、成長後に何らかの特性を帯びる暗示である。桃太郎なら立身出世、釈迦なら聖性、弁慶の場合は知恵と怪力という具合だ。その怪力を示すのがこれだ。
近くに「弁慶の立岩」がある。
もう少し近付いてみよう。
あまり大きく見えないが、草むらに埋もれているのだろう。この岩も『出雲・石見の伝説』で紹介されている。
この長海地区には長見神社があるが、その後方に弁慶の立て石と名づけられている高さ約二メートル、幅一・六メートルの石がある。彼が力試しに立てたものと伝えられる。
そういえば、来る道の途中に神社があった。戻ってみよう。
松江市長海町の「長見神社」は、『出雲国風土記』に「長見社」として登場する古社である。
社宝に「弁慶願文」があり、これも『出雲・石見の伝説』で紹介されている。
ところで、母は弁慶が十七歳の時、帰らぬ人となってしまった。悲しんだ彼は、出生の地、野原の屋敷森に祠を建て、弁吉女霊神として祀り、さらに自身の半生記を「武蔵坊弁慶訴状」と題して認(したた)め、長見神社に奉納した後、一念発起して、一路、都をさして上って行ったのである。
「願文」(説明板)は、訴状(出雲・石見の伝説)だとか願書(雲陽誌)だとか、様々に呼ばれているが、要するに出雲における弁慶伝説の原典である。享保二年(1717)成立の『雲陽誌』には、その内容が詳しく紹介されている。母弁吉の生年月日は「大治三年戊申五月十五日」、紀州を出て出雲に向かったのが「久安三年丁卯六月朔日」、弁慶を生んだのが「仁平辛未三月三日」という具合だ。さらに、弁慶に対し「武士になるなら田那部、法師になるなら武蔵坊と名乗りなさい」と言い残して亡くなったのが「仁安二年丁亥五月十五日」だという。
「田那部」は田辺、つまり弁吉の父(弁慶の祖父)である誕象(たんぞう)のいる紀伊田辺である。田辺市東陽の闘鶏神社には「湛増(たんぞう)・弁慶の像」がある。ただし、こちらは父子の関係だ。伝説は語られるうちに様々に変化する。ここで整理してみよう。
『義経記』では、父は熊野別当「弁せう」、母は二位大納言の姫、妊娠期間18か月で弁慶が生まれた。
『弁慶物語』では、父は熊野別当「弁心」、妊娠期間3年で弁慶が生まれた。
『橋弁慶』では、父は熊野別当「湛増」、妊娠期間33か月で弁慶が生まれた。
『雲陽誌』では、祖父が「誕象」、その娘で母は「弁吉」、妊娠期間13か月で弁慶が生まれた。
出雲の弁慶伝説において、妊娠期間が他より短いのには理由がある。『雲陽誌』を読んでみよう。
されは程なく懐胎してつはりに鉄を好、鍬をかくし取りて九具くひぬ、十具の時里の童に見あらはされ半分食残、是によりて汝常の人にちかひ十三月にて仁平辛未三月三日に髪長生歯は二重にはへて生ぬ
弁吉母さんは妊娠中、鍬(くわ)を盗んで食べ、10本目を食べているところを村の子どもに見つかったので食べ残した。そのおかげで、普通の人に近い13か月で弁慶が生まれたのだという。
鉄を食べるなど荒唐無稽な話だが、中国地方でさかんなタタラ製鉄と関係がありそうだ。熊野信仰を普及する山伏によって伝えられた弁慶伝説が、語り伝えられるうちにご当地バージョンに変化したのだろう。
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