「全然だいじょうぶ」という言い方もすっかり聞き慣れてきた。否定表現が伴う「全然~ない」が正しいと思ってきたが、どうやら言葉は世につれ、世は言葉につれらしい。かの文豪、芥川龍之介は、「とても」の使い方について、同じような指摘をしている。大正13年の随筆『澄江堂雑記』所収の「とても」を読んでみよう。
「とても安い」とか「とても寒い」とか云ふ「とても」の東京の言葉になり出したのは数年以前のことである。勿論「とても」と云ふ言葉は東京にも全然なかつた訳ではない。が、従来の用法は「とてもかなはない」とか「とても纏まらない」とか云ふやうに必、否定を伴つてゐる。
なるほど、言葉は生きており変化していく。してみれば、言葉の正しさは相対的なものだろうか。移ろいゆく言葉を編みながら、不朽の名作を残した芥川龍之介が本日の主人公である。
東京都中央区明石町に「芥川龍之介生誕の地」がある。正確に言うと、生まれたのは「新原龍之介」である。
父新原敏三はこの地で牧場を経営していた。中央区教育委員会の説明板を読んでみよう。
明治十六年(一八八三)ごろ、この付近(当時の京橋区入船町八丁目一)に「耕牧舎」という乳牛の牧場がありました。作家芥川龍之介(一八九二~一九二七)は、明治二十五年三月一日、その経営者新原敏三の長男として、ここに生まれました。
龍之介は誕生後七ヵ月にして、家庭の事情から母の長兄芥川道章に引き取られて、本所区小泉町(現、墨田区両国三丁目)に移り、十二歳の時、芥川家の養子になりました。
東京帝国大学在学中から文筆に親しみ、夏目漱石の門に入り、『地獄変』『羅生門』『河童』『或阿呆の一生』など、多くの名作を遺しましたが、昭和二年七月二十四日、三十五歳で自害しています。
父への思いは「『長州人』芥川龍之介」で紹介しているので、今回は母への思いを、同じく『点鬼簿』から引用しよう。ちなみに「点鬼簿」とは過去帳のことである。
僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。
(中略)
しかし大体僕の母は如何にももの静かな狂人だつた。僕や僕の姉などに画を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に画を描いてくれる。画は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水絵の具を行楽の子女の衣服だの草木の花だのになすつてくれる。ただ唯それ等の画中の人物はいづれも狐の顔をしてゐた。
こうして龍之介が母に会ったのは、生誕の地ではなく芝区新銭座町の家でのことである。龍之介の生まれた翌年に耕牧舎の本店は移転していた。ともかく、説明板が記す「家庭の事情」とは、母の事情であった。乳幼児の成育環境としては決して好ましいとは言えないが、養家の芥川家の愛情によりまっとうに育つことができた。
だからと言って父母との縁が切れたわけでないことは『点鬼簿』で描かれるとおりである。ここは龍之介の人生の起点であり、この地で実の父母と過ごした七か月があったことが、龍之介の作風に何らかの影響を及ぼしているような気がしてならない。
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