「難関突破守」というありがたいお守りを受験生に授与しているのは、金崎宮(かねがさきぐう)という神社である。両端を紐で結んだ珍しい形で「小豆袋守」ともいう。戦国時代のエピソードにちなんでいるというので、現地を取材してきた。
敦賀市金ヶ崎町に「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」という横断幕がある。平成23年の大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』放映にちなんだキャンペーンだ。
「退き口」とは撤退戦のことで、日本史上有名なのが二つあり、一つが関ヶ原合戦の際の「島津の退き口」、もう一つが本日紹介の「金ヶ崎の退き口」である。時は元亀元年(1570)、越前の朝倉義景との決戦に臨む織田信長は、金ヶ崎城を攻略した。
さらに進軍しようとしたところに、近江の浅井長政が裏切ったと、妹のお市が知らせてきた。お市は長政の妻である。兄に危急を知らせるため、両端を結んだ小豆の入った袋を、挟み撃ちになるという暗示として送ったのである。
このエピソードは、大河『利家とまつ』や月9『信長協奏曲』でも採り上げられたが、『江』では乳母が発案した小豆袋をお市の方が投げ捨ててしまった。リアリティのある解釈だろう。もっとも、金ヶ崎の退き口は江の生まれる前の話なので、扱いが軽くなるのもやむを得まい。
織田勢は、殿(しんがり)として金ヶ崎城に残った木下藤吉郎らの活躍により、見事に撤退したという。そして京へ戻って態勢を立て直し、同じ年のうちに姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を撃ち破ることとなる。横断幕には、次のように記されている。
江・初・淀(浅井三姉妹)とお市の方の運命をも変えた戦い
そう、確かに三姉妹の運命は金ヶ崎の戦いが行われている最中に変わった。その後、信長に攻められ父を失い、秀吉に攻められ母を失い、権力者の思惑に翻弄されるものの、政治の中枢に近い立場となった。浅井長政が織田勢から離れることがなければ、また別のふつうの人生があったかもしれない。
金ヶ崎の戦いの痕跡を求めて城跡を歩いた。すると山中の平坦地に「焼米石出土跡」があった。
説明板には、次のように記されている。
この付近は戦国時代、金ヶ崎城の兵糧庫があり、織田・朝倉の攻防戦で落城の際、倉庫は焼け落ちその焼米が後に出土したと伝えられる。
兵糧庫は焼けたのか、敵に渡すまいと退却の際に焼いたのか。焼いたとすれば、朝倉勢と織田勢のどちらか。その後の歴史を左右する一戦が、確かにここで行われていた。
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