天城といえば、名曲「天城越え」か名作『伊豆の踊子』の冒頭「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠が近づいたと思うころ」を思い起こす。この場合は「アマギ」と読む。
いっぽう、岡山県倉敷市にある天城は「アマキ」と読む。アマは海のことで、海に臨んだ城があったからだとも、古代に海部(あまべ)が居たからだともいう。また、15世紀半ばに尼子氏の家臣、天野六左衛門が居城していたからだとも伝えられる。
倉敷市藤戸町天城に「天城陣屋跡」がある。江戸時代には「御茶屋」と呼ばれていた。石碑には「天城さま お茶屋のあと 荻舟」と刻まれている。地元出身の本山荻舟(てきしゅう)が昭和三十年に揮毫した。荻舟は小説家、随筆家で料理にも造詣が深い人だった。
現在は「お茶屋グラウンド」として、県立倉敷天城高校の野球部が使用している。この地に陣屋を構えたのは、池田輝政の兄之助の孫である由成であった。之助は小牧・長久手の戦いで亡くなったが、子の由之が幼少であったため、池田家の家督は之助の弟である輝政が継ぐこととなった。池田宗家は輝政、利隆、光政と続き、光政は寛永九年(1632)に移封により備前岡山城主となる。
由之は父の不幸さえなければ家督を継ぐ立場であったため、宗家から厚遇され備前下津井城三万二千石を与えられた。その子由成も光政の備前移封とともに下津井城に入った。ところが寛永十六年(1639)、一国一城令の適用により下津井城が廃城となったことから、天城に陣屋を築いて移ったのである。
倉敷市藤戸町天城の静光寺の山門は「天城屋敷の総門」だと伝えられている。
『藤戸町誌』によれば「天城家中屋敷入口の総門を縮小して移築した」ということだ。陣屋町において、町人の居住地との境界を明らかにする役目があったらしい。
倉敷市藤戸町天城の桜山墓地に「備州老臣池田由成之墓」がある。天城陣屋を築いた人であり、「大石内蔵助のお祖母さん」で紹介したように、池田由成は内蔵助のお祖父さんである。
「備州老臣」とあるように、由成は岡山藩の執政として藩主光政を支えた。寛永二十年(1643)には、由成に名誉なことがあった。後光明天皇の即位礼に際し、岡山藩からの賀使として上洛したのである。あまり知られていないこの天皇は、血気盛んな性格だったようだが、若くして崩御された。
このように由緒ある天城陣屋の跡地で練習に励む倉敷天城高校野球部だが、夏の甲子園は予選1回戦突破が当面の目標だ。由緒ある歴史を誇りとして…、いや、歴史の重みはあれど、そんなものを背負う必要はない。自分の力を信じて、伸び伸びとプレーすればいい。がんばれ野球部!
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