人生には常に分かれ道があって、もう一方の道に足を踏み出していれば、また違った現在があったかもしれない。そのパラレルな自分が今の自分より良ければ悔しいが、それは確かめようがないので、人は今の自分を肯定的に考える。
歴史はどうだろうか。かつてマルクスが錯覚したように、歴史は一本の道を進んでいるように見えて、意外に偶然によって分かれ道を選んでいるのかもしれない。これまで数えきれない偶然が起きていたことだろうが、本日は日本史上最も有名な偶然を紹介する。
岡山市北区立田に「盲塚」がある。JR吉備線の車窓から見ることができる。
いわくありげな名称だが、いったい何だろうか。時は天正十年(1582)、備中高松城をめぐる羽柴秀吉の織田勢と小早川隆景、吉川元春の毛利勢との戦いは膠着状態に陥っていた。そこへ信長横死という驚天動地の知らせが舞い込んでくる。高松町合併に当たって地元の学校の先生方がまとめた『郷土誌たかまつ』(昭和46)では、次のように記されている。(現代的には不適切な用語が含まれている)
秀吉の警戒網に、一人のめくらがかかった。しらべてみると、藤田伝八郎という光秀の使者で、青竹の杖の中に毛利へあてた密書がはいっていた。そこで、伝八郎は切られた。
悲報に崩れ落ちる秀吉に官兵衛が「ご運が開けましたな」とささやき、気を取り直した秀吉が死を秘匿して和議に持ち込み、中国大返しを敢行するのである。後で知った毛利方は地団駄踏んで悔しがった。一般にそう理解されている。
藤田伝八郎が無事に毛利方の陣中に入っていたらどうなっていたのか。もしかすると「豊臣秀吉」の時代は来なかったかもしれない。伝八郎は密書だけでなく、運命のカギをも握っていたのである。
その伝八郎の供養塔とされるのが「盲塚」である。林信男編『備中高松城水攻の検証』によれば、左側面に「天和二年九月日」「安室道庵禅門」と刻まれているそうだ。天和二年は1682年、天正十年(1582)の高松城水攻めからちょうど百年に当たる。それゆえ、戒名は伝八郎のものと推定されている。
このドラマチックなエピソードは、どこまで史実を伝えているのだろうか。江戸時代に人気を博した『絵本太閤記』(三編巻之十二「秀吉捕京都之密使」)では、次のように描かれている。
時に六月三日の夜半計(ばかり)に破れ笠を被り、腰刀を帯し、蛙ヶ鼻の本陣を左へ向ひ、忍びやかに通る者あり、件の斥候(ものみ)とくより見付け、爰彼所(ここかしこ)より寄集り、相図の太鼓を打鳴らせば、十方より数百人の足軽ひた/\と馳よって彼男をおっ取巻、有無を言はせず手取足取高手小手に戒めて、斥候頭大谷慶松が陣へ連行、かくと申す、慶松件の男を近く引出し是を見るに、面に泥をぬりたれば子細有るべき曲者(くせもの)也とて大将の本陣へ引きたりける、秀吉是を聞き給ひ押取刀にて立出、下知して懐(ふところ)を探らしむ、士卒立寄り是を捜すに、首に一つの状箱(じょうばこ)をかけたり、忽(たちま)ち是を引取りて秀吉の前に呈す、秀吉封押切り中なる書翰(しょかん)の表書を見れば、吉川駿河守殿、小早川左衛門尉殿、惟任日向守と記したり、是則ち光秀の密使藤田伝八郎、昨二日の夜京妙心寺を立出でゝ、行程七十里を一昼夜に馳来り、毛利の陣へ到らんとせしに、秀吉が斥候に捕へられ厳敷(きびしく)縛(くゝり)戒めたれば、すべき様なく、かく密書をも奪はれたり、秀吉此表書を見ると等しく馳寄りて抜討に彼曲者を斬り給へば、首より胸へかけ一刀に切倒され、即時に息は絶えたりけり、
時は6月3日の夜中、破れ笠に腰刀の男が、秀吉本陣の石井山を左へ、ひそかに向かっていた。これを監視兵が見つけて合図の太鼓を打ち鳴らしたので、数百人の足軽がこの男を取り巻いて、有無を言わせず縛り上げた。責任者の大谷慶松が見れば、顔に泥を塗っていかにも怪しい。本陣へ連行すると、秀吉は急いで駆け付け、ふところを確認するよう命じた。すると、首から書状入れを下げているではないか。すぐさまこれを没収し、秀吉に差し出した。秀吉が開封して書状の表書きを見ると「吉川元春殿 小早川隆景殿 明智光秀より」と記されていた。この男は光秀の密使で藤田伝八郎と言い、2日夜に京都の妙心寺を出発し、一昼夜で70里を駆け抜け、毛利方の陣中に入ろうとしたところ、秀吉方の監視兵に捕縛され、密書を取り上げられたのである。秀吉はこの表書きを見ると同時に男のもとへ駆け寄り、抜き打ちに首から胸にかけて斬り、男は即死した。
江戸中期の『絵本太閤記』は、娯楽を目的とした今のテレビドラマのようなものだから、史実かどうかは怪しい。藤田伝八郎という名は登場するが、目が不自由ではなさそうだ。もう少し古い記録を調べてみよう。
毛利方として戦った武将に中島大炊助(元行)がいる。彼が著した『中国兵乱記』(五「清水宗治切腹并検使堀尾茂助音信の事」)では、次のように記述されている。
秀吉卿へは六月三日の暮、京都より飛脚到来を即時に御手討に被成、毛利家と御和睦を急ぎ御調へ御上洛被成候。神明の加護か、不思議の大将と申けり。
使者の名前さえ記録されていないが、口封じのために使者を殺害するという非人道的行為は共通して記録されている。大炊助が「神明の加護か」と感心しているところを見ると、毛利方に向かう使者を捕縛したか、味方の知らせにより、情報を先につかんだことは確かだろう。
情報を制する者は天下を制す。不思議の大将秀吉が進んだ道は偶然選んだのではなく、自ら切り開いた道だったのかもしれない。