平成の大合併でいろいろな地名が誕生した。「みどり」「さくら」とか、幼稚園のクラス名のような地名。「伊豆」「伊豆の国」とか、どっちがどっちか分からない地名。「南アルプス」というヨーロッパのような地名。南セントレア市という国籍不明の地名さえ誕生しそうになった。
では、埼玉県の「埼玉」、県庁所在地「さいたま市」の「さいたま」は、どうなのだろうか。
行田市埼玉(さきたま)の埼玉県立さきたま史跡の博物館前に「埼玉県名発祥之碑」がある。
行田市のこの地が県名のもとになったという。どういうことだろうか。説明版を読んでみよう。
明治四年十一月十四日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後、幾度かの変遷を経て、明治九年八月に現在の埼玉県の区域が定まった。「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。
埼玉郡は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡とみられ、、当初は前玉(さきたま)郡という表示も行われ、正倉院文書神亀三年(七二六)の山背国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。
ここ行田市埼玉(さきたま)の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。
なるほど、古代からの中心地の地名が、地域全体の地名になったことが分かる。しかし、「さきたま」と「さいたま」の違いが気になる。
「さきたま」がイ音便により「さいたま」になったと容易に想像ができるものの、いつ頃から「さいたま」なのか。調べると、平安中期の辞書『倭名類聚鈔』にまで遡ることが分かった。
巻第五「国郡部」十二「東海郡」第六十一「武蔵国」に掲載の郡名
埼玉 佐伊太末巻第六「国郡部」十二「武蔵国」第八十三「埼玉郡」に掲載の郷名
埼玉 佐以多万
「佐伊太末」も「佐以多万」も「さいたま」と読むことができる。現在、前玉(さきたま)神社のある行田市埼玉は「さきたま」と読むが、かつての郡名や郷名は「さいたま」とも読んだのである。
とにかく「さいたま市」の中に「埼玉」はないのだ。埼玉県庁があるからといえども、他都市の地名を市名として名乗るのはいかがなものか。ひらがな表記としたことが、せめてもの遠慮ということか。
名は体を表す。地名は地形と密接な結びつきがある。地名から自然災害を予測する研究もあるようだ。平成の大合併の功罪はもっと検証せねばならぬが、イメージ先行でほんわかしたゆるキャラのような地名が増えたことは失策だったと言わざるを得ない。
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