毛利興元は、あの有名な元就の兄にして、先々代の毛利家当主である。若くして亡くなり、後に弟が目を見張る大活躍をしたので、さほど注目されることはなかった。そんな中、安芸高田市歴史民俗博物館は、興元没後500年を記念して平成28年秋に企画展「毛利興元」を開催した。
安芸高田市吉田町吉田に「秀岳院跡」がある。説明板も何もない。
写真正面に見える山に郡山本城がある。この背後には江の川が流れている。この地にあった秀岳院は、毛利興元にゆかりがあるという。どのような関係があったのか。「広報あきたかた」2016年11月号の「安芸高田歴史紀行」に詳しく記述されている。一部を読んでみよう。
『防長寺社由来』によると、興元が24歳で他界した際(1516年)に、三吉郡寺田村(不明)にあった元満寺を興元の菩提寺として吉田に移転し、法名から秀岳院となりました。さらに、1523年に長男幸松丸が9歳で他界し、幸松丸の土居(屋敷)であった地に寺を移したとあります。
ここにあった寺は興元の菩提寺で、寺の移転前には、幸松丸の屋敷があった。幸松丸くんは興元の長男で、元就の先代当主である。気の毒なことに小さいうちに亡くなってしまう。その死にざまも「生首が動いて戦慄驚動」で紹介したように不憫でならない。
企画展「毛利興元」には、日本民藝館所蔵「毛利幸松丸像」が出品された。没後まもなく制作されたもので、亡き子を偲ぶ肖像画としては早期の作例らしい。子を思う親の気持ちが、痛いほど分かる。
興元と幸松丸の墓は、明治2年に現在地(元就墓所の近く)に移転するまでは、ここ秀岳院跡にあったという。毛利元就という巨人の出現により、すっかり影が薄くなっている興元父子。ゆかりの地を紹介することで、せめてもの供養としたい。
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