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鎖国とは幕府による貿易統制のことだが、こっそりと密貿易をした商人がいるとかいないとか。このブログでも浜田藩の会津屋八右衛門を紹介したことがある。有名な銭屋五兵衛にあっては、オーストラリアのタスマニア島にまつわる伝説があるほどだ。
密貿易は犯罪だが、どこかしらロマンを感じる。今日は瀬戸内、岡山藩の商人の話をしよう。どこまで出かけたのだろうか。
備前市日生町日生(ひなせ)の西念寺に「田渕屋甚九郎顕彰碑」がある。市指定の文化財(史跡)である。
漢字ばかりなので、ここは傍らにある日生町教育委員会の説明板に助けてもらおう。
末友宗信(法名)は、代々日生村に住み、家は豪壮で富んでいた。宗信は初名を甚九郎といい、後に宗四郎と号し、代々甚九郎を襲名した。親孝行で、友にはおだやかでつつしみ深く、その仁篤と人柄は隣国まで知れわたり、日生村の人々は皆宗信をしたった。
思うに当村の道場の本尊は浄土真宗の顕如上人の裏書きになる画像である。しかるに寛文年中にゆえあって破却され、延宝三年(一六七五)に本宗に復した。元禄元年(一六八八)に宗信の父宗近が(日生村道場の一寺としての独立をめざし)本仏と寺号をのぞんだが、諸事情のため実現せず、同六年の夏にようやく本仏一躯を免ぜられた。それ以来宗信は(寺号免許のため)官に訴え、衆にぬきん出て粉骨砕身すること十箇年、宝永五年(一七〇八)の冬に至り難事を避け障害を取り除いて、西念寺の号を許された。この年宗信は供田と燈明料の山林を西念寺へ永代寄付し、宝永七年(一七一〇)から正徳二年(一七一二)までに本堂、及び鐘楼、衡門、庫等ことごとくを加え、当村の鎮守である高良八幡、春日神社、荒神社、観音堂も修理した。享保六年(一七二一)には嗣子に命じて四幅の絵伝を寄進せしめ、そのいわれの不朽なることを後世に伝えている。
このあと宗信の嗣子に碑の撰文を依頼された等力山浄念寺(兵庫県赤穂市)の第六世住職児島教山が、宗信とは旧知の間柄のためことわるに忍びず、田舎ことばでこれを書いたという文が続き、宗信の遺徳と業績をたたえる漢詩で終わる。
甚九郎が西念寺の建立など、地域の発展に多大な貢献をしたことが分かる。このように財力、人柄、信仰心を兼ね備えた人物は、どこにでもいるわけではない。
ところが甚九郎の凄さは、これだけにとどまらないという。昭和58年に日生町教育委員会が発行した『日生の昔ばなし』には、次のような話が紹介されている。
「甚九郎の密貿易」
甚九郎さんはな、航海の術がすばらしかったんでな、五島列島から朝鮮、支那、ルソンへまで行って、貿易をしよおったんじゃそうな。
昔のことじゃからあ、まあ密貿易と言うんじゃろうがな。それは、禁止されとったはずがな、甚九郎さんは、どうも池田藩とつながっておったんじゃろおなあ。
金銀財宝を山のように積んで帰ってきて、そのもうけたお金で、いろは四十八艘の大船を作ったりして、残ったお金は池田藩へ寄附しとったそうな。
そいで、田渕屋は、一代のうちに、夢のような大金持ちになって、栄えていったんじゃろおなあ。
スケールの大きな話だ。池田氏の岡山藩もなかなか抜け目ない。しかし、これはあくまでも言い伝えであって、当時の史料はいっさい残っていないそうだ。密貿易だから証拠を隠滅したとも考えられるが、山のような金銀財宝や48艘の大船は隠しようがないはずだ。
おそらく、人々は一代で急成長した田渕屋を見て、その隆盛には何らかのヒミツがあるに違いないと感じたのだろう。「そりゃあ、密貿易じゃねえか」「ああ、甚九郎なら、そうかもしれん」それだけの大人物だったのだろう。
「西念寺表門」も市指定の文化財(建造物)である。重厚な造りのこの門には、次のような意義があると説明板は言う。
寺伝によれば、寛永から寛文の間(一六三〇年~一六七三年)に建築された備前池田藩の家老土倉氏の陣屋門を明治初年に移築したものである。この三間一戸の形式をもった棟門で現存するものは、東京大学の赤門、高知市城北町の開成門の二棟で、中でも西念寺表門が最も古く、陣屋門の構造と意匠を残す貴重な文化財で、建築史上貴重な建造物である。
土倉(とくら)氏は藩を支えた六家老家の一つであった。門は今の和気町米澤にあった陣屋から、明治七年に移築したものという。しかも、東大の赤門と並ぶくらい貴重な門だともいう。
やはり藩は、密貿易のお礼として甚九郎の寺に門を与えたのだろうか。そんなことを想像したくなるような、スケールの大きい密貿易伝説である。
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