日本の周囲には鉄のカーテンも鎖も何もない。ただ海が広がっているだけだ。その海は「唐,阿蘭陀迄境なしの水路也」(林子平「海国兵談」)である。入って来られやすいが出ても行きやすい。鎖国の江戸時代,外国船侵入事件は幾つもあるが密貿易の事件は薩摩藩を除いてあまり聞かない。今日は浜田藩の密貿易の話である。
浜田市松原町に「會津屋八右衛門氏頌徳碑」がある。
地図には「会津屋八右衛門の碑」と記されている。「江戸時代-この地,松原は外の浦とともに裏日本屈指の良港として栄え,多くの廻船問屋がひしめいていた。」(浜田市作成の案内板)この地の会津屋が行ったのは次のようなことだ。頌徳碑を読んでみよう。
鰯山ノ下大鯨横ハル魚族百千影中ヲ泳イテソノ心ヲ知ラス此ハコレ郷土ノ生メル快男児清助ノ子海傑八右衛門ノ俤ナリ志ノ赴ク所ヲ知ル者僅ニ岡田頼母松井図書橋本三兵衛ノ三人ノミ俄然暗中長鰭ヲ伸ハシテ竹島ヨリ南洋ニ及ヒ藩ノ財政ヲ救ヒ地方ノ経済ヲ潤ホス偉ナル哉八右恢ナル哉同志死シテ三十年郡象眠ヨリサム百年茲ニ真価アラハル郷黨建碑追ノ意ヲ表ス導ケ八右アヤカレ後生
ここでいう竹島とは韓国の鬱陵島であるが,八右衛門はさらに南洋に行って密貿易を行い藩の財政を救ったということだ。碑の建立は昭和10年12月23日で内閣総理大臣海軍大将の岡田啓介の揮毫である。まさに当時の日本の気運,海外発展の時勢に合致する「海傑」八右衛門であった。
ところが,当時の史料には竹島へ渡った事実と竹島から持ち帰った物のことは記されているが,それ以上の話はない。ところが,歴史的事実は独り歩きを始め,竹島にて朝鮮と交易をした,清国に渡ったと発展する。その集大成が『濱田町史』で,朝鮮,中国,東南アジア諸国と交易したとされる。『濱田町史』の刊行は建碑と同じ年の昭和10年であった。
江戸時代には国禁を犯した悪人,戦前には海外発展の先駆者,今はどうなのだろう? 地方財政が厳しい昨今である。国の交付金に頼ることなく財政再建を成し遂げようとした傑物なのかもしれない。
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