「貞操」という言葉は、古めかしいが生きている。法律用語に「貞操義務」というのがあり、これに反すると離婚原因となる。民法第752条には「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。」とあり、この一文が貞操義務も含意しているのだ。
貞操は男女の別なく夫婦に課せられた義務だが、「守り通した女の操」のように女性に結び付けてイメージされることが多い。貞操がかたい婦人を「貞婦」と呼んだ。
西条市三芳の弘福寺門前に「貞婦 渡邊スエ女表彰碑」がある。陸軍大将秋山好古の揮毫である。
秋山好古といえば伊予松山の出身で、『坂の上の雲』に登場する著名な軍人だ。彼が顕彰した渡邊スエという女性は、どのような人なのだろうか。碑の裏面には、次のように刻まれている。
貞操の婦人に重んずべきは古今に通じて渝らず今や斯の徳を発揮して人の亀鑑たるべき者現に其の人あり伝へざるべけんやスエ女は寺町仁市の次女弘化三年六月愛媛県桑村郡楠村に生る長じて同郡三芳村の農渡邊小市の妻となりしが慶応二年小市リウマチスに罹りて病年と共に重く明治七年よりは臥したる侭関節の痛みに昼夜号泣するのみスエ女寝食を忘れて病夫を看護する傍貧苦の中に三人の子供を養育すること拾有四年一日の如く見聞する者皆同情の涙を濺げり斯くて明治二十一年の秋小市病癒えずして終に永眠す爾来スエ女は節を守りて苦しき生計を営みしが三十六年六月に至りて病歿せりスエ女一生の間官府及び各種団体より表彰を受くること十数回愛媛県は嘗て其の事蹟を綴りて人の鏡と題し小学修身書に載せたり郷人スエ女の徳を欽仰し石に勒して之を後世に伝へんとし文を予に求むよりて爰に梗概を叙すること斯の如し。
昭和三年秋十月 文部大臣 勝田主計
操を守る女性が大切にすべきことは今も昔も変わらない。貞婦の模範となる人が実際にいたので、ぜひとも伝えたい。スエさんは寺町仁市の次女で、弘化三年(1846)六月に愛媛県桑村郡楠村(現在は西条市楠)で生まれた。大きくなって同郡三芳村(西条市三芳)の農家、渡邊小市の妻となった。しかし、慶応二年(1866)に小市はリウマチに罹り次第に重くなっていった。明治七年(1874)からは寝たきりとなり関節の痛みに号泣する毎日となった。それでもスエさんは、寝食を忘れるほど夫の看病をするかたわら、貧苦の中で三人の子どもを育てることを十四年間変わらず続けた。これを見聞きする者はみな、同情の涙を流した。明治二十一年(1888)の秋に小市は、病が癒えることなくついに永眠した。以来、スエさんは貞節を守り苦しい生活を頑張ってきたが、三十六年(1903)6月に病気で亡くなった。スエさんは一生のあいだに、官公庁や各種団体から十数回の表彰を受けた。愛媛県はかつてその事績をまとめ、小学校向け修身書『人の鏡』に掲載した。スエさんの地元の人は、その人徳を尊敬し慕うため、石に刻んで後世に伝えることとした。私はその文章を依頼されたので、ここに概要を記しておく。
撰文を依頼されたのは、田中義一内閣の文部大臣、勝田主計(しょうだかずえ)である。やはり伊予松山の出身で、秋山好古の弟真之の友人であった。同郷のネットワークによって顕彰活動が行われている。
『人の鏡』は明治16年に愛媛県学務課が編集した副読本で、当時県域だった讃岐伊予両国の孝子や貞婦が紹介されている。スエさんもその一人で、貧困の中で夫の看病と子育てを両立させた努力には頭の下がる思いがする。いっぽうで、女性はこうあらねばならない、という世間のまなざしが、人権を抑圧してきたことも思い起こすべきだろう。「人の鑑」と見るか「婦人の鑑」と見るかで大きく異なる。
ただ「人の鑑」としても考えさせられる。献身的な介護は、今や「老老介護」とか「認認介護」などと、ますます深刻化している。個人の努力には限界がある。貧困や病気に関するセーフティネットを拡充し、安心して助けてと言える社会づくりが求められている。
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