縄文時代にも産業はあった。日常生活の道具として重宝された石器は、必ずしも狩人自作ではなく、専門的な工房で製作されていた。原材料の調達、運搬、加工、そして製品の取引。現代産業の機能はすでに、縄文時代に存在していたのである。
徳島県海部郡美波町田井に「田井遺跡」がある。日和佐道路建設に伴う発掘調査で発見された。
日和佐道路の下に遺跡が保存されている。通常は記録保存にとどまるが、この遺跡はとりわけ重要だと考えられたのだろう。美波町教育委員会の説明板を読んでみよう。
平成14年(2002年)の発掘調査により、この地が縄文中期(約5000年前)を中心とした時代に、かなり大がかりな石器などを製作していた工房跡であることが判明しました。そして発見された石器・土器・玦状(けつじょう)耳飾りなど4万余点の出土品のほとんどが北部九州・瀬戸内・東海など遠い国々で産出された素材であることが判明、このことから、ここ田井の浜を中心として遠いこれらの地方との丸木舟による石材をはじめ物資の交流があったことが明らかだと思われます。
これらのことから、この付近一帯が縄文人の生活の場であり大勢の男女や子供たちで賑わったであろうことが想像できます。
由岐町教育委員会『由岐町郷土事典』によると、4万点を上回る縄文土器の破片、62点の石斧(せきふ)、125点の石鏃(せきぞく、矢尻)、24点の石匙(いしさじ)、10点のスクレイパー、7点の玦状耳飾りが発掘されたという。
数の多さもさることながら、その素材の産出地が遠方であることに驚かされる。土器には吉野川流域の土、石器(特に石鏃)には香川産のサヌカイトが使われ、九州北部や東海地方とのつながりまであるという。輸送手段は、磨製石斧を使って製造した丸木舟であった。
出土品のうち目を引くのは「玦状耳飾り」だ。視力検査に使うランドルト環のような形で、ピアスのように装着する。半分に割れたら穴をあけ、勾玉のように使っていたとみられる。石材は滑石や蛇紋岩である。
大規模な工房が、なぜこの地につくられたのか。アルフレッド・ウェーバーの工業立地論によれば、原料所在地、動力所在地、市場所在地の三要素によって工場の位置は決まる。石器や土器の原材料の調達場所は遠方だが、丸木舟という輸送手段がある。大市場はやはり吉野川流域であるが、原材料を調達する際に売りさばくことができる。丸木舟にするための大木は近くにあった。労働力は専門性の高い技術集団として確保できている。
この地にハンドメイドの石器工房があった。職人の製作する矢尻は鋭く、遠方の顧客から注文が相次いだ。輸送手段さえ確保できれば、地方でも起業が可能なことを、5千年前の縄文人が教えてくれている。