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戦国武将最強の名前は「龍造寺隆信」だと思う。画数が多くて字面が重厚だし、実際に肖像を見ても、イメージどおりの濃い面構えだ。最後に不覚を取ることになる隆信だったが、一時期は大友氏、島津氏とともに九州を三分するほどの勢いがあった。
勝者がいれば、当然ながら敗者もいる。本日は隆信に敗れた側の史跡を訪ねよう。
武雄市朝日町大字中野(川上)に「お仙の塚」がある。
時は天正二年(1574)。畿内では織田信長の勢力が拡大していたが、反信長勢力の動きもますます活発になっていた。地方では、まさに弱肉強食、弱小な戦国大名の淘汰が進んでいた。九州では、この年の正月に肥前鏡城(鳥栖市牛原町)の草野鎮永(くさのしげなが)が龍造寺隆信に城を奪われた。
この時、鎮永の妻、草野御前は反龍造寺勢力の塚崎城(武雄市武雄町大字武雄)の後藤氏を頼って落ちのびる。ところが、身重の体でここ川上までやって来た時に、疲労の末に動けなくなり、ついに病死してしまった。
草野御前につき従った老侍女「お仙」と5人の家来はこの地にとどまって冥福を祈ったという。いよいよ、この塚の説明に入ろう。武雄歴史研究会『新・ふるさとの歴史散歩 武雄』では、次のように記されている。
「お仙の塚」といわれる板碑形六地蔵が成鎮寺入口に建っています。上半部は草野御前を、下半部はついてきた家来を表しているのでしょう。その中央の「妙心禅尼」はお仙の法名と伝えられています。
人は死んだ後に、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道のいずれかに生まれ変わり、これら6つの世界で生死を繰り返すという。六道輪廻である。だが恐れることはない。それぞれの世界には、ありがたいお地蔵様がいらっしゃって、迷える衆生を救っているのだ。この6尊のお地蔵様を「六地蔵」と呼んでいる。
この「お仙の塚」は、お仙と5人の家来を六地蔵として祀ったものか。それとも、板碑型六地蔵から6人の人物が創作されたのか。いずれにせよ、戦国の修羅道に倒れた衆生の冥福を祈るとともに、現世における魂の救済を図っていることは疑いない。
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