「馬渡」さんは難読名字の一つだ。「まわたり」なら読めそうだが「もうたい」は思い付かない。それだけに貴重だ。佐賀県鹿島市納富分(のうどみぶん)には馬渡(もうたい)という地名もある。
肥前で活躍した武士に馬渡氏がいる。この一族のうち最も有名な人物にスポットを当てるのが本日の記事である。
武雄市若木町大字川古に「馬渡甲斐守俊明戦死之処」と刻まれた石碑がある。書は「馬渡俊明公後裔従四位勲四等 馬渡俊雄」で昭和5年に建てられた。
すぐ近くに「戸坂(とさか)峠の秀岩(しゅうがん)塚」がある。塚の手前には拝殿が建てられている。「秀岩」とは馬渡(もうたい)俊明(としあきら)の号である。
歴史的背景から説き起こすこととしよう。龍造寺隆信が登場する前の肥前は、群雄割拠する国衆が勢力を争っていた。武雄周辺で有力なのが後藤氏と渋江氏であった。馬渡俊明は渋江氏配下の武将である。
渋江公勢(きみなり)は近隣の国衆を従えるとともに、純明(すみあきら)、公政(きみまさ)、公親(きみちか)という三人の男子にも恵まれ、一家は安泰であるかに見えた。男子三人の母はそれぞれ異なり、長男純明は母の実家で世継ぎのない後藤氏の養子となった。三男公親は母が正室であることから渋江氏の世継ぎとされた。
これに不満を持ったのが公政の母である。世継ぎ公親を亡き者にするため毒を盛ったが、あろうことか死んだのは我が子公政と夫公勢であった。渋江氏は公親が継いだものの、まだ少年。これを好機と見た実兄の後藤純明は、すぐさま渋江氏を攻撃し城を奪い取った。これが大永七年(1527)のことである。
主家を失った馬渡俊明は、とりあえず後藤氏に従ったものの、ひそかに渋江氏再興を企図し反旗を翻す機会をうかがっていた。ところが、後藤純明はここでも一枚上手だった。武雄歴史研究会『新・ふるさとの歴史散歩 武雄』には、次のように記されている。
後藤純明は、俊明に野心あることを察し、後難を除くため機先を制して、天文二年(一五三三)に一千余騎を従えて住吉城を出陣しました。真手野を経て川古に進出し、俊明の本拠に殺到しました。馬渡軍は俊明と嫡男道俊、二男重有をはじめ、一卒に至るまで死力を尽くして防戦しました。
戦況は刻々不利になったので、下村の館を退き、再挙を図るべく従兵数騎とともに重囲を突破しました。戸坂峠に差しかかったとき、後藤の軍勢が山中から俊明めがけて切りかかってきました。俊明らは前後に敵を受け奮戦しましたが、力及ばず壮烈なる戦死を遂げたのでした。
後藤軍は住吉城(武雄市山内町大字宮野)から真手野(武内町大字真手野)を経て川古(若木町大字川古)に進出した。西から東へと兵を進めているのだ。これに対し馬渡軍は下村(川古地内)から脱出したものの戸坂峠で遂に斃れた。国道498号を南へと向かっていたのであった。
秀岩塚は俊明と道俊の供養塔だという。二男重有のみ生き延びることができた。馬渡氏による主家再興の夢はついえたが、成人した渋江公親が雪辱を果たそうと後藤氏に対抗する。だが、それも束の間。後藤氏の優位は確定することとなる。
勝負は時の運。敗者となった馬渡俊明であったが、忠義においては楠木正成と同様であろう。戦死した戸坂峠に塚が築かれ今日まで大切にされているのは、俊明の忠義が後世の人々の心を動かしたからに他ならない。
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