この夏に「平成最後の百姓一揆」が起きたという。甲子園で決勝まで行った金足農業の快進撃を指すハッシュタグである。農業高校の奮闘を「百姓一揆」と呼んで盛り上がるのだから、我が国は平和なのだとつくづく思う。
メンバー全員が秋田出身であることを「地産地消」とも表現しているが、彼らはホンモノの百姓一揆とはちがって、「義民」とは呼ばれない。本日は、村人が苦しむのを見かねて生存権闘争に立ち上がった義民の話をしよう。
神河町新野に「上月平左衛門墓碑」がある。その左右に平左衛門の顕彰碑がある。
明治33年建立の墓碑には、「大上院平英月雄居士」という法名と宝永5年8月25日の命日が刻まれている。顕彰碑は左側が明治30年、右側が明治33年の建立である。近くに神河町教育委員会の説明板があるので読んでみよう。
上月平左衛門伝承の地
上月氏は、もともと赤松則村の家臣であったが、この地(新野)土着帰農した。その子孫平左衛門景吉が大庄屋として、飾西、神西の亀ケ壷山の入山権争いを有利に解決した。(一六二五)その恩恵は現在に及び毎年八月二十六日には故人の業績を偲び法要を行なっている。
争いが解決した年として1625年という西暦が記されているが、正しくは承応元年(1652)のことである。墓碑では宝永五年(1708)が没年となっているが、『近世義民年表』(吉川弘文館)によると、承応元年当時に新野村大庄屋だった平左衛門は天和二年(1682)に没しているという。
物語はさらに続く。
神河町根宇野に「首切り地蔵」がある。確かに首のところで割れたお地蔵さまが祀られている。
首切りとは穏やかではない。だが、どのような伝説なのか興味が湧く。説明板を読んでみよう。
首切り地蔵(袈裟斬り地蔵)
旅の身じたくをした上月平左衛門は江戸をめざしてこの街道を東へと急いでいました。平左衛門はこのあたりの大庄屋をしていましたが、うち続く不作のため重い年貢に苦しんでいる人々の姿を見るにしのびず何回も藩の役人に年貢を少なくし人々を救ってもらうよう訴えましたが聞き入れられないので死を覚悟して幕府の役人に直訴するためでした。
ところがこのことが藩の役人に知れ平左衛門、目的を達成することなく追ってきた役人によりこの地で斬り殺されてしまいました。
このありさまを見た根宇野の人々は嘆き悲しみ霊を慰めるため道ばたに地蔵さんをたててお祭りしました。ところが幾日もしないうちに地蔵さんの首がコロリと割れて落ちてしまいました。
村びとはもう一度地蔵さんをつくってお祭りしました。ところが又、前と同じように首が落ちてしまいました。
ちょうど平左衛門が殺されていた姿と同じではありませんが二つの地蔵さんとも袈裟斬りされた姿です。
人々は、お坊さんをよんでねんごろにお経をあげてもらい霊を慰めました。
このようなことから首切り地蔵(袈裟斬り地蔵)と呼ばれるようになりました。
又、生地の大河内町新野には義人上月平左衛門の徳をたたえて大きな墓碑がつくられています。
神崎町
この伝説は偕成社『兵庫県の民話』に「首きり地蔵」として採録され親しまれてきた。だが、平左衛門が立ち上がったのは重税に耐えかねてであって、入山権争いを解決するためではない。しかも新野の顕彰碑(左側)には、宝暦二年(1752)5月26日という命日も刻まれており、平左衛門が二人いたことが分かる。
混同が生じて詳細が分からないが、村の人々の利益を守るために行動した人物が複数いたことは確かだろう。その象徴が義民「上月平左衛門」であった。大庄屋として代々平左衛門を名乗っていたのか、後世の義民が平左衛門の名で訴えたのか。
権力者が反抗する弱者を切り捨てるのは、決して昔話ではない。近年ではネット上で正義を振りかざした弱者叩きが横行している。シリアで拘束されていたジャーナリストに対する「自己責任」論は、その最たるものだ。
権力者が自らの責任を明らかにしないにもかかわらず、弱者は責任は追及されて袈裟斬りとなる。私たちはまだまだ、袈裟斬り地蔵の語る伝説に耳を傾けねばならない。