「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉があるが、なかなか思い切ることはできないものだ。できないからこそ物語になる。その物語は私たちに困難に立ち向かう勇気を与えてくれる。今日は16歳の娘が見せた自己犠牲の精神に学ぶこととしよう。
武雄市西川登町大字神六に「万寿観音堂」がある。この地は「万寿姫住居跡」だそうだ。
万寿姫とはどのような人物なのか。堂内に掲げられた額の裏に由来が記されており、平成22年の筆写でその内容を知ることができる。頼朝の面前で舞い母を救った万寿姫は御伽草子『唐糸草子』に登場するが、こちらは源氏がらみでもストーリーが異なるようだ。
謹んで
京都の人、公家松尾弾正之介吉道郷は事情あり。高瀬の里に落ちのびられる。公逝去の後、母は病床に臥し、一子小太郎は拾壱才、姉万寿姫は十六才なり。薪取や摘草取りなどして貧しき生活を助け、母に孝養弟の訓育怠らざりき時に、有田白河池に大蛇住み、或時は黒神山天童岩に馳せ登り、地方民を悩ますこと限りなし。時に領主武雄後藤高宗公武力を以て退治を図られしも其功なく、遂に武雄大明神黒神山大権現の御告げに依り、十五・六才の娘を飼食に捧げなば、大蛇は躍り出る、其の際打つより外に道なしと有り。領主にて八方に探せ共、飼食に願ひ出る者なし。四苦八苦の詮議中に、当所より万寿姫は、母の目を忍び、幼心にも小太郎に松尾家再興を頼み、姉なき後、姉の分迄孝養を頼むぞよとしばし抱擁、一生の別離を哀む。気取戻し本陣にとぞ急がれけるに願の件届かれ、大蛇飼食にとぞ待受けられる。念珠をつまぐりながら法華経を読誦さる其の気丈夫さ何にたとえん方なし。唯々観世音菩薩の御化身かと思われける。大蛇は御告の通り火焔の中より飛び出たり。一呑せんとする処を、高宗公一矢、源頼朝諸将の矢の元に、大蛇退治が出来たと有る。当時二條天皇の御代、長寛弐年皇紀千八百廿四年と記されて有る。今昭和廿参年皇紀弐千六百八年より算すれば七百八拾四年に当る。此の機を記念とし、老翁太八夫人の亀鑑たる万寿観世音を奉り敬い、愛に一額を奉納し永世に伝えんと欲す。
希くは郷土の諸士和平協力、切に祭典存続せられん事を伏乞。
昭和弐拾参年拾弐月
引用文中の「吉道郷」は「吉道卿」、「源頼朝」は「源為朝」、「愛に」は「爰に」の誤りだろう。武雄領主の名前は「高宗」とも「助明(すけあきら)」とも伝えられ、松尾家は公家とも武士ともいう。長寛二年は1164年に当たる。
万寿姫は孝心に篤いだけでなくお家再興も願い、大蛇の前に進み我が身を犠牲にしようとする。姫を一呑みにしようした大蛇は、地元領主と客将源為朝の矢によって倒される。なんとスペクタクルな展開であろうか。
大蛇を退治した源為朝が弓を掛けたという松は「鎮西八郎、チェスト!きばれ!」で紹介した。過酷な運命に立ち向かうけなげなヒロインと強きヒーロー。ヒール役は悪の権化のような大蛇である。間一髪のところでヒーローがヒロインを救出する。ハリウッド映画を見るような爽快感を感じるのは私だけではないだろう。
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