平成29年秋の衆院選で民進党が4分裂(立憲民主党、希望の党、民進党参議院、無所属の会)した時、議員の先生方はずいぶん去就に迷われたに違いない。信念に基づいて行動するのが代議士の本分だが、もはや、きれいごとを言っておれない生存競争であった。
もっと去就に迷ったのは、幕末の各藩だろう。特に親藩とか譜代とか徳川家に近いほど苦しい判断を迫られたに違いない。名老中阿部正弘を輩出した福山藩の場合はどうだったのだろうか。
福山市丸之内1丁目の「福山城跡小丸山」は市指定の史跡である。かつてはテニスコートのあたりまで広がる大きさだったらしい。
福山城博物館、ふくやま美術館、福山城公園庭球場と文化やスポーツの場に囲まれ、よく整備された公園にしか見えないが、どのような場所なのだろうか。福山市教育委員会の説明板を読んでみよう。
福山城は北面に堀がめぐらされていないため、小丸山は福山城の城背防備の役割を持った天然の城塞でした。
明治維新に際し、譜代であった福山藩は長州軍の攻撃を受け、この丘で死守します。当時福山藩は藩主阿部正方を失い、その喪を秘して小丸山に仮埋葬していましたが、藩論を尊王にまとめ、儒者の関藤藤陰らを使者に立てて長州藩との和平を成立させ、城下は戦火を免れることができました。
戊辰戦争は東日本が戦場となったイメージが強いが、西日本の雄藩福山藩は長州軍と一戦を交えている。鳥羽・伏見の戦いに勝利した長州軍は、尾道に待機させていた別動隊を福山攻略に向けて動かした。慶応四年(1868)1月9日のことである。
この時、福山藩主阿部正方はすでに亡くなっていたが、藩はその死を秘匿していた。しかし、情勢が逼迫してきたことから遺体を小丸山に仮埋葬した。長州軍が城の北西にある円照寺から砲撃してきたのは、それから間もなくのことであった。
福山藩はなんとか小丸山で城を死守し、関藤藤陰らを使者として講和交渉を始めた。藤陰は頼山陽に学んだ儒者で、阿部正弘を補佐した重鎮である。顕彰碑が建てられているというから見に行ってみよう。
福山市三吉町に「藤陰関藤先生碑」がある。写真では工事中だが、今は福山市立大学附属こども園があるようだ。
この碑は、関藤藤陰遺徳顕彰会が昭和51年(1976)12月の百年祭に当たって建立した。当時はここに市民図書館があったらしい。ちなみに藤陰の没日は明治9年(1876)12月29日である。
碑文は明治11年3月に阪谷朗廬(さかたにろうろ)が撰した漢文だ。朗廬は岡山の名門私学で女子駅伝で知られる興譲館の初代館長である。漢文には「直衝飛丸入敵軍往復弁論遂明名義確立誓約」とあるが、難解なので隣の説明板(東学区まちづくり推進委員会作成)の関係部分を読んでみよう。
明治元年(一八六八年)正月、長州兵が京都の旧幕府軍を攻め上る途中、福山城を囲み巨弾を城内に撃ち込んだ。藤陰は、福山藩は通過を妨げないから福山城下に入らないよう長州軍と交渉し、城下を戦火から救った。このことは、江戸城無血開城の手本になった。
私はかつて、西郷隆盛VS勝海舟の名場面は、静岡における山岡鉄舟の予備交渉あってこそと主張した。ところが、その手本は福山における関藤藤陰の和平交渉だったという。歴史は一度には進まない。一歩ずつ一歩ずつ進んだのであった。
長州軍の福山城攻撃に関しては、長州藩兵について「案外さんと残念さん」で、阿部正方について「幕府を支えた青年大名」で紹介している。大河ドラマには描かれないが、ドラマチックな場面が多い。藩主亡きあと去就に迷う藩士をまとめ、城下を戦禍から救った藤陰の功績は、もっと高く評価してよいだろう。
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