通勤途上、橋をいくつも渡っているはずだが、ほとんど気にしたことがない。もし橋がなかったら大変困るはずだが、感謝したことがない。私たちが平和の享受を、空気のように当たり前に思っているのと同じだ。そうなら、橋を渡れるのは平和な証拠、橋は平和の象徴と言えるだろう。
広島市中区橋本町と南区京橋町を「京橋」が結んでいる。広島城下から京へと上る西国街道に架かっているので、この名がある。
親柱にレトロな雰囲気を感じるが、それもそのはず「昭和二年六月竣成」とあり、原爆の爆風にも耐えた被爆橋梁だ。写真では手前が爆心地側だから、この親柱には爆風が直撃したはずだ。同様な6橋梁のうちでは最も爆心地に近く、その距離は1380mである。橋と平行に爆風が通過したことで落橋を免れ、近くの説明板で「被爆者の避難や救援の通り道になり、多くの人の命を救いました」と伝えられている。
京橋の周辺には「京橋川の雁木群」があり、2007年に社団法人土木学会選奨土木遺産に選定されている。「雁木」とは船着場にある階段のことで、雁の行列のようにギザギザしていることから名付けられた。説明板には次のように記されている。
京橋川の雁木群は、「水の都ひろしま」を象徴する我が国最大規模の河川舟運用の雁木群で、特に京橋から栄橋の間には様々な造りの雁木が残っています。その形状を見ると、人が通られる程度の幅のものがほとんどで、大規模な河川港というよりは個人用と見られるものが多く、まさに川が生活に欠かせない存在であったことが伺えます。
商人の生活に欠かせなかった雁木は今、市民と水辺をつなぐ親水空間として都市景観に見事に調和している。
広島市中区橋本町、銀山町と南区稲荷町を「稲荷大橋」が結んでいる。
鉄道道路併用橋で広電本線が通過している。広島のメインストリートに通じる重要な橋だ。戦前・戦中は電車専用橋で、人はもっぱら京橋を渡っていたらしい。説明板には次のように記されている。
京橋川に架かるこの橋は、人類史上初めての原子爆弾により、爆風でレールが上下左右に波打ち、熱線で枕木が焼けこげました。市内電車の専用橋でしたが、下流の柳橋が焼け落ちたこともあり、市内中心部から郊外へ避難するため、多数の被爆者がこの橋を渡りました。橋の下では、無数の死体が浮かぶ川に、水を求める人が殺到しました。
国際平和文化都市、広島に今日も市内電車が走る。今この時間にも車が絶えず往来していることだろう。惨禍に遭いながらも広島は、これほどまでに復興しているのだ。原爆の悲惨さと平和の尊さを肌で感じている我が国が、核兵器廃絶の先頭に立たなくてどうするというのか。
ノーベル平和賞を受賞した「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)の事務局長に会おうともしなかった安倍首相が、中距離核戦力(INF)全廃条約の破棄を表明するアメリカ大統領をノーベル平和賞に推薦したのだという。技術立国を標榜する日本だが、平和の架け橋を築く技術だけは欠いているようだ。
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