「千丈の堤も蟻の一穴」という不気味なことわざがある。堅固な堤防もアリのつくった小さな穴から崩れ始める、というのだ。確かにそうだろう。すべての大失態は小さなミスから始まる。まさにハインリッヒの法則。ささいなヒヤリ・ハットをおろそかにしてはならない。
木曽三川の下流部は洪水が頻発するため、「輪中」が形成された。村を堤防で囲んで守っているのだ。その堤防が一年に二度も切れた場所がある。一度目は豪雨で、二度目は台風で。まさかアリの穴が原因ではないだろう。
岐阜県養老郡養老町根古地(ねこじ)に「決壊口之碑」と刻まれた石碑がある。
私が訪れた十月末はご覧のように好天に恵まれ、災害など想像できないくらいに平穏だった。ここでいったい何が起きたのか。国土交通省の説明板を読んでみよう。
牧田川「根古地(ねこぢ)の破堤」
昭和三四年八月一二日から一三日にかけて、活発な前線活動と台風七号の接近にともなう影響で、西南濃地方には四○○~七○○mmに達する記録的な豪雨があり、一方揖斐川上流部でも連続雨量が六○○mmに達した。このため揖斐川、牧田川では大出水となり、八月一三日午後八時二○分、牧田川堤防が養老町根古地地先で約一二〇mにわたって破堤し多芸輪中内の養老町および南濃町約二九○○haに濁流が流れこんだ。
このため、約一七○○戸の家屋が一瞬のうちに水没し、多芸輪中は一面の大湖水となり、住民は着のみ着のままで堤防上に避難した。破堤箇所の復旧は夜を日について行われたが、その湛水は二八日の長期にわたった。
しかし、続いて九月二六日から二七日にかけて伊勢湾台風が襲来した。八月の破堤箇所は旧堤以上の堅固な仮堤防となっていたが、伊勢湾台風が前回を上回る空前のものであつたため、洪水は仮堤防を溢水し必死の水防作業も空しく再度同一箇所が破堤した。
これによる湛水の範囲は八月豪雨時とほとんど変わらず、再び輪中は三四日間にわたって水につかった。
この時の多芸輪中内の湛水位(標高)は、八月一五日に四・六五m、九月二七日に三・九三mを記録したが、この付近では一階の屋根に達する状態であつた。
破堤地点には「決壊口之碑」が建立された。
踏んだり蹴ったりの大水害であった。氾濫したのは牧田川といい、この近くで揖斐川に合流する一級河川である。先人の知恵を形にした輪中も、破堤すればひとたまりもない。水位は4.65m、3.93mに達したという。それを記録したのがこれだ。
養老町下笠(しもがさ)の早戸神社に「多藝(たぎ)輪中洪水水位碑」がある。
「藝」の字のあたりに「集中豪雨による水位34.8.15零時」の文字と水位線が刻まれている。「中」の字のあたりに「伊勢湾台風による水位9.27」の文字と水位線が刻まれている。字義どおり「立つ瀬」はなかった。
近くの道は平坦ではなく、少し盛り上がっている。かつての堤防の痕跡である。多芸輪中を構成する「下笠輪中」の堤防だったが、洪水の危険性が感じられなくなると取り除かれた。
そのいっぽう、今も活用されている輪中提もある。
養老町有尾(ありお)と田(た)の間の「有尾輪中提」である。
このあたりは正保年間に開発が始まった。かつては田船で行き来した堀田であったが、昭和50年の土地改良工事で近代的な美田となった。
どっしりと構える養老連山の東側には、水と戦い水と共に暮らした人々の姿があった。輪中からは、知恵と工夫と努力の大切さを学ぶことができる。塵も積もれば山となり、土を積めば千丈の堤となるのである。
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