いよいよ参院選という政治のお祭りが始まった。自民一強は揺るぎそうにないので、通算在職日数が現在歴代3位の安倍内閣は、さらに記録を伸ばすだろう。8月24日に佐藤栄作(2798日)を抜き、11月20日には桂太郎(2886日)を上回るのだという。
安倍政権に対してはすでに食傷気味なのだが、長期政権を維持していること自体は実に立派である。歴代62人の内閣総理大臣のうち通算在職日数が1年以下だったのは、365日の福田康夫を含めて21人もいる。本日は短いほうから数えて14番目の首相を紹介しよう。
津山市南新座に「知新館」がある。国の登録有形文化財(建造物)である。
門前の石柱には「第三十五代内閣総理大臣 平沼騏一郎 生誕地」と刻まれている。平沼騏一郎は慶応三年(1867)に津山藩士の家に生まれた。今で言う東大法学部を卒業後、長く司法界で活躍し、大逆事件では大審院次席検事として幸徳らの死刑を求刑した。平沼は社会主義とか共産主義をたいへん危険視していたのである。
大正十二年、関東大震災直後の混乱期に第二次山本権兵衛内閣で司法大臣を務めた。在任中の事績としては、就任直後に発令した「治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件」通称「治安維持令」を挙げることができる。これは治安維持法の先駆けと言われている。
このころ平沼は国本社という国体思想を宣伝する政治団体を組織し、共産主義の脅威から我が国を守ろうとしていた。会員20万人と称したことから、戦後「日本ファシズムの総本山」とみなされたが、そこまでの実体はなかったようだ。
昭和十四年(1939)1月5日、近衛文麿内閣の崩壊により、平沼は内閣総理大臣に就任した。当時外交上の懸案が二つあり、一つが支那事変処理、具体的には汪兆銘工作であった。平沼内閣は占領地域の既成政権や抗日容共方針を転換するなら重慶政権も加えて新政府を樹立する方針を決定し、6月に来日した汪も新たな中央政権は自らが主導する意向であることを平沼首相に表明した。支那事変処理は進展しているように見えるが、結果的には泥沼へ向かっていたのである。
当時、世界の政治潮流は大きく三つあった。まず英仏流の民主主義、次にソ連の共産主義、そして独伊のファシズムである。平沼が最も嫌悪していたのは共産主義で、ファシズムも共産主義の亜流として好ましく思っていなかった。かといって民主主義を好しとしたわけでなく、我が国の皇道とは相容れぬものと見ていた。
そんな平沼が向き合わねばならなかった懸案の二つ目は防共協定強化問題である。当時、日独伊防共協定を対ソ及び対英仏の軍事同盟にまで強化しようとする考え(陸軍)と対英仏軍事同盟には否定的な考え(海軍・外務省)とが対立していた。現実的な平沼は対ソに限定してドイツと連携しようと考えた。他方ドイツは対英仏を重視しており、平沼内閣の方針とは異なっていた。
そして運命の8月23日を迎える。独ソ不可侵条約が締結されたのである。対英仏を優先するドイツが対ソで妥協したのであった。世界各地で驚きの反応が見られたが、最もショックを受けたのは平沼内閣である。手のひらをくるりと返され、梯子は完全に外された。
対ソで妥協はできず、対英仏には踏み切れず、ドイツには不信感を抱くことになった。かといって親英仏路線に方針転換もできなかった。にっちもさっちもいかなくなった平沼内閣は28日、次のような名言を残して総辞職した。8月29日付の大阪朝日新聞に掲載された首相談話には、次のような一節がある。
しかるに今回締結せられたる独ソ不侵略条約により欧洲の天地は複雑、怪奇なる新情勢を生じたのでわが方はこれにかんがみ従来準備し来った政策はこれを打切り、更に別途の政策樹立を必要とするにいたりました
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・大阪朝日新聞 政治(59-069)
この「複雑怪奇」は平沼騏一郎を象徴する言葉として現在まで語り伝えられている。情報収集の稚拙さを指摘するのは簡単だが、他の誰であれ当時の状況に対処するのは至難であったろう。
津山市小田中の安国寺に「平沼騏一郎墓」がある。東京の多磨霊園にも墓所がある。
平沼が死去したのは昭和二十七年(1952)8月22日である。墓碑に「享年八十六」とあるように長命であった。岡山県からは3人の首相を輩出しているが、美作出身は平沼が唯一である。養子の平沼赳夫も独自の政治勢力を結成して活躍した。平沼親子とは政治思想がまったく異なるが、この度の参院選に津山出身の原田謙介という若者が立候補する。私は同じ美作という地縁から健闘を祈っている。
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