我が国の仮想敵国は韓国だというのか。G20において文大統領を冷遇しただけでなく、経済的にも圧力をかけようとしている。そのうち「最大限の圧力」なんて言い出すかもしれない。北も南も同じ民族だから、どっちがどっちか分からなくなったのだろうか。
一衣帯水の日韓は兄弟のようなものだから、兄弟喧嘩もよくするが、兄弟には絶対に切れない絆がある。朝鮮とのゆかりは、そこここに見ることができる。
津山市小田中の安国寺に県指定重要文化財(工芸品)の「梵鐘」がある。
洗練された美しいフォルムであることに加え、銘文から判明する来歴の確かさが文化財としての価値を高めている。その銘文を読んでみよう。
大日本国作州高倉縣
寄松山多聞寺
永和三年丁巳十一月二十三日
大工長岡住百済源次
大願主権律師明賢
作州高倉縣(たかくらあがた)に寄松山多聞寺(きしょうざんたもんじ)があり、この梵鐘は永和三年(1377)に鋳物師の百済源次によって製作された。まずは多聞寺のあった場所を探すこととしよう。
津山市下高倉東にある毘沙門天堂は「寄松山多聞寺跡」である。
説明板によると多聞寺の歴史は古く、貞観二年(860)に慈覚大師円仁が開山したという。その続きには、こう書いてある。
南北朝時代、美作国の守護山名義理(やまなよしただ)は多聞寺への信仰心が篤く、寄進造営によって堂塔・寺坊・宮社が建ち並び、悪魔降伏の霊場として栄えていた。その後、赤松氏が守護職となったが、嘉吉の変(室町時代一四四一)で敗れ、逃走する赤松軍は多聞寺を破壊し焼き払った。
播磨が舞台だと思っていた嘉吉の乱の被害が美作まで及んでいたことに驚かされる。ただそれもそのはず、当時の美作守護は乱の張本人、赤松満祐であった。その後、延享二年(1746)に近くの畑の土中から鐘が見つかり、現在の安国寺に寄進されたとのこと。ここではこの鐘を製作した百済氏に着目したい。『津山市史』第三巻近世Ⅰには、次のような記述がある。
鋳物の業も、美作では早くから行われた。苫田郡鏡野町中谷神社に現存する鍔口には、「百済源治作 文中三甲寅天三月吉日」(文中三年は一三七四)とあり、また市内小田中安国寺に伝わる作州多聞寺の古鐘には、「永和三年十一月 大工長岡住百済源次」(永和三年は北朝の年号。南朝では天授三年-一三七七-に当る)の銘があって、津山鋳物の古い由緒を雄弁に物語っている。この百済氏は、家伝によると古代に朝鮮半島から入国した有力な帰化族のあとで、河内国で鋳物業をもって繁栄した。その一族が分派して、北朝の観応二年(南朝の正平六年-一三五一-)美作に移り、津山川に沿うた久米南条郡長岡庄金屋(津山市金屋)で鋳物業を始めたといわれ、その金屋の村名もこれによったものとされている。
この百済氏の末裔が経営する「百済質店」に、あの司馬遼太郎が訪れた。『街道をゆく』(7)「砂鉄のみち」には、次のような記述がある。関係部のみの抜粋である。
その家系伝承では、先祖は百済王敬福(くだらのこにきし けいふく)であるという。
百済家の家系では、その敬福から二十五代の孫の馬之丞という者が南河内の狭山で鋳物を始めた、とある。
その馬之丞から十代目の又四郎というのがこの美作国に移住し、長岡庄に住んだ。
百済家はその金屋村に十代住み、善三郎助重という者の代になって江戸時代になり、信州から転封してきた津山城主(十八万六千石)森忠政にまねかれ、津山城下の吉井川の河畔で鋳物をはじめた。
百済王氏については「朝鮮半島ゆかりの天皇」で紹介した。天皇家をはじめとして私たちには、朝鮮半島と切り離すことのできない縁がある。現代社会にあっても、それを誇りとしている人がいる。
それほどまでに一衣帯水の韓国に対し、政府は半導体製造に使われる化学製品の輸出規制を発動するというではないか。しかも「安全保障上の輸出管理」というとってつけた理由で、その実態は嫌がらせだ。愚の骨頂としか言いようがない。韓国叩いて支持率アップの参院選対策だとはっきりと言うほうが誠実だろう。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。