平成30年7月豪雨は西日本各地に未曽有の災害をもたらした。都市部ではかなり復興が進んだようだが、山間部ではいまだに通行止めとなっている場所がある。本日紹介する物見峠もその一つだ。
私がこの峠を越えたのは豪雨のひと月ほど前だった。県境を越えてしばらくは快適に進んだが、次第に急カーブが現れ、ついには通行止めとなってしまった。この時は県道295号が通行できたので那岐駅へ抜けることができたが、今はこの道も路肩崩落で通れない。
岡山県津山市加茂町物見と鳥取県八頭郡智頭町西宇塚の境に「物見峠」がある。陰陽連絡道の峠の一つで中央分水界でもある。
災害はこれまでにも幾度となくあっただろう。それでも峠を隔てて陰陽はつながっていた。物見の人々は智頭に木炭や木材を運び、日用品を積んで帰ったという。日本歴史地名体系34『岡山県の地名』「物見村」の項を読んでみよう。
物見峠は津山方面から因幡国へ通じる国境の峠で、正保二年(一六四五)の美作国絵図(村松家蔵)に「坂難所」と記され、きわめて険しい峠道で、「東作誌」に「因作の国界なり、絶頂に石地蔵あり、村中より峠まで坂路十五町二十間(中略)津府より国界まで六里三十一町二十間」とある。
この石地蔵が写真では、「鳥取県」の標識の左手に見える。寛政年間のものだという。右手に見える石柱は県境を示すもので、正面には「県界標 岡山県」、右に「岡山県」、左に「鳥取県」、裏に「昭和十六年三月建之」とある。
昭和16年といえば、太平洋戦争開戦の年である。風雲急を告げる状況にあって、陰陽の連絡を円滑にしようとしたのだろうか。そんなこととは関係なく、民生に配慮して峠を整備したのだろうか。
今この地域の陰陽連絡は黒尾峠で行われている。物見峠の通行止めが長く続けば続くほど、峠の必要感が薄れていくだろう。寛政の昔から行き交う人々を見続けてきたお地蔵さまは、今後どのような歴史を目撃することになるのだろうか。
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