もうひと月ほどで、11月11日の「西陣の日」がやってくる。昭和42年(1967)に制定された記念日である。この年は応仁の乱から500年の記念の年だった。山名宗全の西軍が本陣を置いた場所は「西陣」と呼ばれるようになり、文明9年11月11日に乱が終息すると、織物職人が住み着いて「西陣織」が生まれた。だから「西陣の日」を11月11日としたのだ。
応仁の乱が東西対決だからと言って、それぞれの勢力範囲が東日本と西日本に分かれていたわけではない。ただし山名氏の拠点は西日本にあり、但馬の惣領家のほか、因幡守護家と伯耆守護家があった。尼子氏以前では山陰最強の守護大名だった。このうち、本日は因幡山名氏の拠点をレポートする。
鳥取市湖山町南3丁目に県指定史跡の「天神山城跡」がある。散策するには手ごろな城跡で、下の写真は途中で見つけた井戸跡である。
因幡守護家は、「六分一殿」と呼ばれた最盛期の山名氏のうち、因幡守護となった氏冬に始まる。初めは今の岩美町にあった二上山城(ふたがみやまじょう)を拠点としたが、やがて、ここ天神山城へ守護所を移したという。鳥取県教育委員会の説明板を読んでみよう。
正面に見える小山は、天神山と呼ばれ室町時代の因幡守護山名氏の居城・天神山城があった。
江戸時代の地誌「因幡志」には、文正元年(一四六六年)山名勝豊によって築城されたと記されている。
築城の経緯は不明な点も多いが、天神山城は天正元年(一五七三年)、山名豊国が鳥取城に本拠を移すまで因幡国の政治的拠点であり、鳥取城にゆずるまでの約一○○年間、因幡山名氏の居城であった。
城はかって内堀・外堀を備え、内堀は天神山を取り囲む南北四〇〇メートル東西三○○メートルの長方形に掘られ、外堀は布勢卯山(ふせうやま)をも包みこみ湖山池に通じる総延長二、六キロメートルに及ぶものであった。外堀の内側には城下町が形成されていた。発掘調査で土師質土器・中国製の陶磁器・備前焼・古銭・下駄・曲物などが見つかっており、現在でも井戸・櫓跡・堀の跡などが残っており往事をしのばせている。
築城者は山名宗全の子である山名勝豊だとされるが、勝豊は長禄三年(1459)に死去しているため史実ではない。氏冬からの因幡守護の継承について大まかな説明をしよう。氏冬の子である氏家は明徳の乱に巻き込まれたが因幡守護を継承できた。しかしその後は、氏冬の弟で明徳の乱で討死したという高義の系統に因幡守護が移り、熈高、熈幸、豊氏(伯耆守護家出身で熈幸の養子)と続く。その間、氏家の子である熈貴は嘉吉の乱で横死している。
この熈貴の養子となったのが、宗全の子である勝豊だとされているが、別の見方もある。実は勝豊は、文安年間(1444~49)に熈高の養子となり因幡守護を継いだが、享禄二年(1453)に死去し、守護職は熈高の子熈幸に引き継がれたのでは、というのだ。この場合、勝豊が守護職をしている間に、父宗全の意向もあって居城を天神山城に移した、とされる。
いっぽう応仁の乱勃発時の因幡守護は豊氏であったため、天神山城築城は豊氏とする見方もある。豊氏の後継者の豊時は、通説では勝豊の子だが、豊氏の子だという説もある。豊時以後の因幡守護は親子兄弟間で内訌が続き、豊重、豊頼、豊治、誠通の順に守護となる。誠通の代には尼子氏に従って独立性を失い、その死後に因幡守護職は尼子晴久に与えられた。
これを見た但馬惣領家出身の豊定が因幡の地を奪い返す。豊定の後継者は棟豊(豊定の甥)、豊数(豊定の子)、豊国(豊数の弟)と続く。この頃には毛利氏と尼子残党軍の対立が激しくなっており、天正元年(1573)、豊国は尼子残党軍と結んで毛利方となっていた鳥取城を奪い取り、本拠地を移転したのである。その後の豊国は毛利氏に降り、さらには「一門の名を揚げそうろう」や「今も慕われる山名宗全の後裔」で紹介したように、波瀾万丈の生涯を歩むこととなる。
勝豊もしくは豊氏が天神山城を築き、豊国が鳥取城に移るまでの歴史を概観したが、室町戦国特有のグダグダ感があって訳が分からない。簡単に言えば説明板のとおり「因幡国の政治的拠点」で、一時期尼子氏に降った以外は「山名氏」としての独立性は保っていた。しかも豊国の代には山名氏諸家のうち最大の勢力を有し、名門の気概を保っていた。
戦国大名のファンは多いが、守護大名が好きな人はあまり聞いたことがない。山名氏も細川氏も家の存続にかける思いは、戦国の世さながらであった。天神山城を拠点とした山名氏因幡守護家の人々も生きるために必死に戦っていた。その城跡を紫陽花が静かに見つめている。
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