JR姫新線は姫路駅近くは都会らしい混み具合で本数も多いが、津山駅周辺はそれほどでもない。今は静かなこの路線を、昭和天皇を乗せたお召列車が昭和22年と42年に通過したことがある。
姫新線によく似たルートの旧出雲街道を通って隠岐へと流されたのは後醍醐天皇であった。昭和天皇はお召列車だったが、後醍醐天皇は御輿(みこし)に乗っていただろう。
津山市領家にJR姫新線の「美作千代(みまさかせんだい)駅」がある。津山駅から西へ二つ目の駅だ。丸型ポストがよく映える。
この郷愁漂う木造駅舎は、大正12年(1923)、津山駅と美作追分駅を結ぶ作備線の開業と同時に建てられた。外壁には押縁下見板張り(おしぶちしたみいたばり)の技術が使われている。日中の乗降客はそれほど多くないが、朝夕は津山や真庭へ通う高校生がよく利用している。
寅さんがふらっと現れても不思議ではない風景だが、これから登場するのは後醍醐天皇である。もちろんお召列車には乗らないが、この地にもゆかりがあるという。『久米町史』下巻「伝説」のうち「せんだい(千代)」の項を読んでみよう。
大字南方中の内にある地名である。
後醍醐天皇が隠岐へ御遷幸の時、此の地で御乗りの御輿を洗われたので、此の地を「せんだい」と称するようになり、文字も「洗台」と書かれていたが後に「千代」と書くようになった。とも、又、
南方中村に「千躰仏」の跡があったが、仏像も仏堂もなくなって、今は「千躰」という地名だけが残っておる。というのである。
昭和天皇のお召列車はピカピカに磨き上げられていたというから、後醍醐天皇の御輿を洗い上げたとしても不思議ではない。ただ天皇はこの前後でお顔を洗っていらっしゃるので、御輿はなかなか進まなかったことだろう。
地名の由来を「千体仏」に求める説もある。立派なのは三十三間堂の千体千手観音立像だが、素朴な石像の千体仏も各地にある。因幡の大河「千代川(せんだいがわ)」も千体仏に由来するようだ。
いずれにしても、後醍醐天皇がこの近くを通過したことは間違いない。おそらく立ち止まることはなかっただろうが、その歩みはJR姫新線のように、ゆったりとしていたのではないだろうか。
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