姫路駅を出る姫新線の汽車は播磨新宮駅行きが多く、ICOCAは播磨新宮駅まで使える。これはこの地がベッドタウンとして、姫路を中心とする生活圏域を構成していることを意味している。そういえば播磨自動車道も今のところ播磨新宮ICまで通じている。
知らない人は近年になって開発されたニュータウンかと思うだろう。本日紹介するのは、播磨新宮駅から徒歩約5分の大規模な弥生集落である。弥生人は好条件の土地がどこにあるのかをよく知っていたのだ。
たつの市新宮町新宮に国指定史跡の「新宮宮内遺跡」がある。弥生人が暮らしていたのは、タワマンでも賃貸アパートでもなく、戸建ての竪穴住居だった。写真には収めていないが、中に入ると意外に広い。おすすめの物件だ。
弥生サラリーマンが通勤しているのは姫路か、さらに東の阪神方面か。詳しいことは説明板で読んでみよう。
新宮宮内遺跡は縄文時代後期(約3000年前)以降の集落遺跡です。弥生時代中期に最盛期を迎え、深くて大きな溝(環濠)で区画されたなかに、住居址や墓が数多く作られました。おそらく地域のなかでも中心的な位置を占める有力な集落になっていたのでしょう。
とりわけ、ここに築かれた直径約14mの規模を誇る円形周溝墓は当時としては国内でも最大級のものでした。付近で検出した戦士の墓と思われる土壙墓群と並んで、全国的にも注目されています。ところで、弥生時代中期の西播磨地方は広い意味で東部瀬戸内一帯と共通する文化圏に属していました。このことをよく示しているのが分銅形土製品です。これは東部瀬戸内に分布の中心があるお祭りの道具で、新宮宮内遺跡からは現在のところ兵庫県下最多の14点が出土しています。
なお、当遺跡からは奈良~平安時代前期ころ(8~9世紀)の遺構も数多く発見されており、美作道との関連がうかがえるようです。
平成13年11月 新宮町教育委員会
上の写真が深くて大きな溝、「北大溝」である。掘ったときに出た土砂を積み上げて土塁状にして、外敵に侵入を防いでいたようだ。下の写真は当時国内最大級だった「円形周溝墓」と、19本の矢を受けるという壮絶な死を遂げた「弥生戦士の墓」である。
これらがつくられた紀元前1世紀は、『漢書地理志』に「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国をなす。歳時を以て来り献見すと云ふ。」と記録された時代である。百余国が平和共存していたとは思えない。戦国時代さながらの生存競争を繰り広げていたのではないか。
合従連衡を繰り返す諸勢力の中で、新宮宮内王国の立ち位置を示すのが「分銅形土製品」だ。この土製品がもっとも多く出土しているのは岡山県で、鳥取、兵庫、広島の各県がこれに続く。これは、岡山県域を中心に共通文化圏が形成されていたことを示しており、吉備連合(KU)の存在を推定することができるだろう。
また、円形周溝墓は吉備に多く、ここから東の阪神方面には方形周溝墓が多い。ということは、新宮宮内王国はKUの東縁に位置し、東の勢力と相対していたのかもしれない。弥生戦士が刀折れ矢尽きて倒れた場所は、地域最大手KUの最前線だったのだ。
いま新宮の人々がつながっているのは、西ではなく東方面の文化圏である。この変化に大きな役割を果たしたのは「美作道」だろう。畿内と出雲を結ぶ重要な道路で、その沿線に位置していた新宮は、おのずと東の文化圏との結びつきを深めていった。今も昔も地域形成には交通インフラが欠かせないようだ。