「いちまーい、にまーい、さんまーい……じゅーまーい、じゅーいちまーい…じゅーはちまーい」「おいおい、お菊さん、あんたが数えるのは9枚までじゃないのかね」「なに言ってんだい、働き方改革さ。倍数えたから、明日は休ませてもらうよ」
幽霊であっても、選択と集中で作業効率を高め、余剰時間を生み出している。漫然とルーティンをこなしているとマンネリ化し、サービスの質を低下させるおそれがあるからだ。本日は皿屋敷伝説があるという米子からレポートする。
米子市久米町の米子城跡に「御殿御用井戸跡」がある。姫路城の「お菊井戸」に比べるとずいぶん小さい。
これが伝説の井戸なのか。標柱の説明を読んでみよう。
きれいな清水がわきでるので御殿の用水に使う車井戸があった。
車井戸とは、両端に釣瓶をつけた縄を滑車にかけて使う井戸である。やんごとなき方々が暮らす御殿にとっては貴重な水源だったに違いない。だが、皿屋敷伝説にまつわる井戸かどうかには言及がない。
では米子皿屋敷とは、どのような伝説なのか。『日本伝説体系』第十一巻「山陰」の「雲州皿屋敷」の項に掲載されている類話を読んでみよう。
鳥取県米子市―事情があって池田家より幼君を荒尾家に預けられ、そのお供腰元としてお菊という女が米子に来た。お菊は絶世の美人だったので荒尾但馬が懸想したが意のごとくならず、そこで但馬は大切な皿をお菊にあずけて置き、その一枚をひそかに取り隠し、その落度をせめ、井の上の松にさかさにつるしてこれを斬った。お菊はこれを深く恨み、「妾の一念で荒尾家を滅す」といって死んだ。その後荒尾家には不吉が続いたので、その亡霊を鎮めようとして小祠を建立したという。(孔版『鳥取県郷土調査』第四十四巻)
「御殿御用井戸」は、本当にお菊をつるした井戸なのだろうか。その蓋然性が高いのは、井戸の前にあるテニスコートが、荒尾但馬屋敷跡と伝えられているからだ。さもありなん、と思わせるシチュエーションである。
しかし皿屋敷伝説は全国に展開しており、『日本の皿屋敷伝説』(伊藤篤、海鳥社)という本まであるくらいだ。冷静に考えれば、米子皿屋敷も後付けの話に過ぎないだろう。迷惑をこうむったのは荒尾但馬家ではなかったか。
鳥取藩には「自分手政治」といって家老職への委任統治の制度があった。米子を任されたのが荒尾但馬家、着座十家の筆頭である。とりわけ9代目の荒尾成緒(なりつぐ)の米子入り(文政二年、1819)は壮麗を極めたと伝えられている。そんな権勢を誇る荒尾家に対するやっかみから、この伝説が生まれたような気がするが、どうだろうか。
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