城といえば天守閣。いや、天守閣よりも石垣が美しいという城もある。名曲「荒城の月」で知られる岡城。もうすぐしたら桜色に染まる津山城。天守閣が小さく見える丸亀城。いずれも優れた石垣技術で築かれ明治まで存続した城である。
近世城郭に比べて中世の山城には、土塁や堀切があっても石垣はない。あっても郭の崩れやすい部分を補強する程度である。ところが今回訪れる山城には、見事な石垣があるという。さっそく登城開始だ。
岡山市北区御津河内に「徳倉城跡」があり、県の史跡に指定されている。30分ほど登ると、美しい「野面積石垣」のある主郭に着く。森本基嗣『新版 岡山の山城を歩く』(吉備人出版)の表紙に採用されるほどの見ごたえだ。
いったいどのような歴史があるのか、ふもとにある説明板には次のように記されている。
築城の始めははっきりしないが太平記によれば高師秀康安2年(1362)守城とある。戦国時代松田一族・宇垣氏の居城となり松田氏亡んで遠藤河内守が居城したが関ヶ原合戦後廃城となった。天守郭の石垣他たくさんの遺構がある。
昭和六十三年三月 御津町教育委員会 御津町文化財保護委員会
文字数は少ないが、城主の名前が示されていることが手掛かりとなる。高師秀(こうのもろひで)は有名な高師直の甥で、備中守護として松山城に拠っていた。離合集散の激しい南北朝期の康安二年、反幕府の大物武将、山名時氏の軍勢が伯耆から美作、備前備中に侵攻してきた。『太平記』巻第三十八「諸国宮方蜂起事付越中軍事」を読んでみよう。
山陽道には、同年六月三日に、山名伊豆守時氏五千余騎にて、伯耆より美作の院庄へ打越(うちこえ)て、国々へ勢を差分(さしわか)つ。先(まづ)一方へは時氏子息左衛門佐師義(もろよし)を大将にて、二千余騎、備前、備中、両国へ発向す。一勢は備前仁堀に陣を取て、敵を待に、其国の守護、松田、河村、福林寺、浦上七郎兵衛行景等、皆無勢なれば、出合(いであう)ては叶はじとや思けん。又讃岐より細川右馬頭頼之、近日児島へ押渡ると聞ゆるをや相待(あひまち)けん。皆城に楯籠(たてこもつ)て未曾戦(いまだかつてたゝかはず)。一勢は多治目(たぢめ)備中守楢崎を侍大将にて、千余騎備中の新見へ打出(うちいで)たるに、秋庭三郎多年拵(こしらへ)すまして、水も兵糧(ひやうらう)も卓散(たくさん)なる松山城へ、多治目楢崎を引入しかば、当国の守護越後守師秀(もろひで)可戦様無(たゝかふべきやうなく)して、備前の徳倉城へ引退(ひきしりぞ)く刻(きざみ)、郎従赤木父子二人落止(おちとゞまつ)て、思程(おもふほど)戦て、遂に討死してけり。依之(これによつて)、敵勝に乗て、国中へ乱入(みだれいつ)て、勢を差向々々(さしむけさしむけ)攻出(せめいだ)すに、一儀をも可云様無(いふべきやうなけ)れば、国人(くにうど)一人も従ひ不付云者(つかずといふもの)なし。
康安二年(正平十七年)、南党の山名時氏(やまなときうじ)は五千騎余りで伯耆から美作の院庄へ進み出て、周辺の国々に軍勢を差し向けた。備前備中には嫡男の師義(もろよし)に二千騎余りを付けて向かわせた。ある部隊は備前仁堀(赤磐市仁堀地区)に陣を構えて幕府方を待ち受けていたが、備前守護の松田氏をはじめ、河村氏、福林寺氏、浦上行景らはいずれも無勢だったので、かち合ってはならないと思ったのだろうか。または幕府方の実力者細川頼之が近日中にも讃岐から児島に渡ってくると聞いて待っているのだろうか。備前の幕府勢はみな城にこもったまま戦おうとしない。またある部隊は多治部師景と楢崎氏を大将として千騎余りで備中新見に進出したところ、地元の秋庭重盛が周到に準備し、水も食糧もたくさんある松山城に多治部と楢崎を引き入れた。備中守護の高師秀は応戦することもできず、備前の徳倉城へ退いた。この時、師秀の家来の赤木父子は城にとどまり、存分に戦って討死した。こうして南党山名勢は備中を席巻し、国人で従わない者はいなかった。
徳倉城に備中守護が逃げ込んだというが、その後どうなったのかは分からない。それから二百年後のことである。
城のふもとの徳蔵神社裏に「徳倉城主宇垣一郎兵衛供養塔」がある。
備前の戦国大名は宇喜多直家が有名だが、直家登場以前は松田氏が金川城を拠点に西備前に揺るぎない勢力を誇り、東備前の浦上氏に対抗していた。宇垣氏はその松田氏の重臣で、徳倉城を本拠としていた。
松田氏の領国経営は有能な家臣によって安泰かに見えたが、当主元輝の強引な宗教政策によって人心は離れていった。これにつけこんだのが直家である。『備前軍記』巻第三「宇喜多松田を討ち金川落城の事」を読んでみよう。
金川城中にも日蓮宗の道場を建立しければ、家中の兵士も領内の百姓も左近将監をうとみ退去するもの多し。直家是を幸の時なりとはかり討たんと思へども、老臣に横井土佐・橋本某・宇垣市郎兵衛・其弟与右衛門などいふよきものありて、家をとり治めける故亡しがたし。この横井土佐は医術をよくして此薬をのめば病も則平癒するやうにいひふらしける。其上正直仁愛の生れつきにて、敵といへども薬をあたへ療治しける。又宇垣兄弟も謀などよくせしものなりし。直家ある時沼より金川に到りて鹿狩を所望して城主と共に狩をしける。其時鹿をうつとて誤りて宇垣与右衛門を討殺す。誰うちしともしれず。実は直家の臣に搏(う)たせし事なりとぞ。
宇垣氏は市郎兵衛と弟の与右衛門が松田氏に仕え、謀略を得意としていた。主君の松田元輝は、嫡男の義父である宇喜多直家に誘われて鹿狩りを行ったが、この時、あってはならない事故が起きた。宇垣与右衛門が誤射され死亡したのである。犯人は分からずじまいだったが、実は直家の家来の仕業だったという。謀略は直家のほうが一枚上手だった。
宇喜多氏に毅然とした対応をしない主君に愛想をつかした兄の市郎兵衛は出奔してしまった。そして、重臣の伊賀久隆が直家と組み金川城を攻撃するに及んで、備前の名門松田氏は滅んでしまう。永禄十一年(1568)のことである。
その後、徳倉城には宇喜多氏の家臣、遠藤秀清が入った。この武将は日本史上初のスナイパーである。備中の有力武将三村家親は永禄九年(1566)に鉄砲で暗殺されたが、これを直家の命により決行したのが遠藤兄弟であり、兄又次郎が遠藤秀清である。
徳倉城は金川城の西の守りの拠点の一つであり、ふもとを通過する県道61号妹尾御津線から堅固な構えを見ることができる。宇喜多氏の一円支配が確立してからは軍事拠点としての重要性は低下した。守り備える城から権力を見せつける城へと役割が変化し、「天守」のような建物や美しい石垣が築かれたのだろう。
ちなみに、城主の遠藤秀清は関ヶ原後に浪人となったが、子孫は池田家に仕官し鳥取藩を支えたという。歴代城主をめぐる物語を楽しみながら、ゆっくりと歩を進めるのに好適な山城である。往時は天守櫓から敵の動向を注視していたことだろうが、今私たちはCOVID-19とかいう見えづらく訳の分からない敵と戦っているところだ。
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