今月8日に政府が7都府県に緊急事態宣言を発出し、人々の接触機会の8割減を要請した。これに倣って感染者が増えている他地域でも独自の緊急事態宣言を出し、不要不急の外出をしないよう呼び掛けている。宣言の期間は来月6日までだが、果たして解除できるだろうか。「やばいぞ」と警告を発するより、「もう安全です」と言うほうがよほど難しいはずだ。
しかし私たちは行動で答えを出さねばならない。経済活動の維持〔出掛ける〕と感染拡大の防止〔出掛けない〕は相反するとはいえ、折り合いをつけてゆかねばなるまい。今の行動が2週間後に影響する。感染者数の下り坂を駆け降りるのか、医療体制の崩壊とともに転げ落ちるのか、私たちは分水嶺に立っている。
庄原市東城町小奴可と同市西城町高尾の境に「中央分水嶺」がある。
国道314号を挟んで北に猫山、南に白滝山がある。二つの山を結ぶラインが中央分水嶺に当たる。写真では向こうの東城町側が高梁川水系で、その水は瀬戸内海、太平洋へと続き、手前の西城町側が江の川水系で日本海へ流れ込む。さらに南に下ってみよう。
庄原市本村町の中山峠は「中央分水嶺」である。
広島県道23号を横切って南下した中央分水嶺は、さらに南方の旧上下町へと延びている。写真では向こうの東城町側が高梁川水系で、手前の本村町川が江の川水系となる。中国山地は東西方向なのに分水嶺は南北方向というイメージギャップが面白い。このあと中央分水嶺は西へ進み、北広島町で島根県との境に合流する。このブログでも北広島町中原峠ヶ谷(たおがたに)の「陰陽分水嶺」を紹介したことがある。
岐路は分かれ道のことで、分水嶺は雨水が異なる水系に分かれる場所をいう。この地理的な用語はしばしば人生や物事の移り変わりにも用いられ、ニュースで耳にすることが多い。地理においては日本海に注ぎこもうが瀬戸内海に到達しようが、落ちた雨粒が低い方へ流れる物理的な現象の結果に過ぎない。
それでも私たちは雨粒を自分に置き換え、そこに運命を感じてしまうのである。ああ、また違った人生があったのではないか、と。雨粒ならば日本海と太平洋どちらに到達しようが、土中にしみこもうが何ら問題ない。しかし、いま私たちが立つ坂のいっぽうにはあたりまえの生活、もういっぽうには医療崩壊した感染列島。雨粒は運命に従うだけだが、私たちには意思決定する力がある。
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