「令和」という元号が全国で初めて地名となったのは東京都大田区の「令和島」で、東京湾にある人工島「中央防波堤埋立地」の一部である。この人工島は帰属をめぐって大田区と江東区が17年間も争っていた。
令和になった昨年の9月20日、東京地裁が79.3%を江東区、20.7%を大田区の帰属とする判決を下した。そこで大田区が町名を決定したのである。ちなみに江東区側は五輪会場にちなんで「海の森」という町名になるそうだ。
平成29年に示された調停案では江東区86.2%、大田区13.8%だったが、これを不服とした大田区が提訴し裁判になっていた。土地争いは紛争の普遍的なテーマである。本日は江戸時代の美作における山論を見ることにしよう。山論についての碑は、遠江の事例を紹介したことがあるので併せてお読みいただきたい。
津山市坪井下の七森神社前に「大谷山論功労者之碑」がある。
ここは平成17年まで久米町で、昭和29年まで大井町だった。大井町は同27年に大井西村と大東村の合併により成立した。坪井下は大井西村の中心集落であった。いっぽう大東村の中心集落は中北下である。
ここを舞台に山林の帰属や利用権をめぐる紛争、山論があったという。碑文が説明板に翻刻されているので読んでみよう。
大谷山ハ往古ヨリ坪井下村ノ共有林ナリシガ享保五年ノ頃ヨリ入会山ナリト称シ他村ヨリ大挙侵入シテ柴草ヲ刈リ村民之ヲ拒ンデ屡(しばしば)乱斗アリ漸次横暴ヲ極メ常二論争絶へズ代官所ニ訴ヘテ制止スルモ其命二従ハズ之ヲ放任セバ他村民ニ占有セラレン事ヲ憂ヒ江戸幕府ノ直裁ヲ仰ガントシテ享保十一年四月坪井下村庄屋庄左衛門組頭弥三兵衛仝九郎兵衛百姓総代惣兵衛新七彦四郎ノ六名出府シテ関係十二ヶ村民ヲ相手取リ訴訟ヲ提起シテ論詰遂ニ勝訴トナル時ニ享保十二年十一月十三日ナリ実二二百三十一年前ノ事ニシテ之ガ経費二百両ヲ要シ村民疲弊セリト謂フ本年八月一日大東村ト合併シテ大井町制ヲ施行スルニ当リ其山林ノ大部分ハ個人ノ有ニ皈(き)スル事トナレリ茲ニ坪井下住民相謀リ其功績ヲ讃ヘ且碑ニ録シテ之ヲ後昆(こうこん)ニ伝フ
昭和廿七年十二月 坪井下
享保五年(1720)、坪井下村の共有林に中北下村本郷の農民が大谷山に柴草を刈りにやってきた。二つの村はけっこう近くなのだが、坪井下村は上野安中藩領、いっぽう中北下村本郷は幕府領(分郷は安中藩領)であった。
「おいっ、ここは坪井下の林だぞ。他の村の者は入ってはならん」
「何を言う。ここは昔からの入会地だ。柴草を刈って何が悪い」
享保八年(1723)六月二十七日、中北下村は宮尾村、領家村、久米川南上村、久米川南中村、神代村、神戸村、院庄村を誘って大谷山に侵入した。そして翌二十八日ついに、待ち構えていた坪井下村との間で大規模な衝突に至り、双方に負傷者を出した。その後もトラブルが続き、中北下村は南方中村、山手公文北村、里公文村、足山村を味方に引き入れ、坪井下村に圧力をかけた。
そこで代官らの斡旋により、大谷山のうち五分は坪井下村の持山、残り五分は関係の村すべての入会地とするという案が出された。これを坪井下村その他五か村は承諾したが、中北下村を含む七か村が反対したのでまとまらなかった。
享保十一年(1726)ついに、坪井下村の人々は代表を江戸へ送り、安中藩主内藤正森の手を経て幕府の寺社奉行へ訴えた。棚倉藩主太田資晴が双方の訴えと証拠書類を吟味し、翌十二年(1727)に申渡しがあった。坪井下村の全面勝訴である。村人代表が領主内藤様のお屋敷に報告すると、お祝いの御馳走でもてなしてくれたという。
坪井下村と中北下村の関係がその後どうなったかはよく分からない。231年の時を経て両村は大井町という一つの自治体としてまとまることとなった。自分たちの権利の正当性を理路整然と訴えた祖先を誇りとし、合併を機に町の発展にいっそう貢献することを誓って、この碑を建てたのであろう。
距離が近ければ協力もするのだが、どうしてもトラブルも発生する。それをいかに解決し、いかに乗り越えていったか、大谷山論功労者之碑が一つの事例を今に伝えている。
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