高梁川は岡山県の三大河川で備中地方の大部分を流域としているが、意外に知られていないのは、備後地方にも広い流域を有することだ。今は庄原市の一部となった備後東城は、高梁川水系成羽川の流れが美しく瀬音ゆかしい城下町である。高瀬舟で瀬戸内海へ出ることができ、陸路で出雲に行くこともできた。陰陽連絡における要衝の地である。現代は東西交通の大動脈である中国自動車道が通過している。
庄原市東城町戸宇(とう)字牛川に市史跡の「牛川古墳」がある。
戸宇地区には戸宇川が流れ、その水は市街地で成羽川に流入する。地区内を中国自動車道が貫いているが、その道沿いに小ぶりな牛川古墳がある。説明板を読んでみよう。
東城の市街地と戸宇の谷を結ぶ峠にあたる標高384mの丘陵尾根上にある、全長21.0m、後円部径14.0m、前方部の幅10.0m、後円部の高さ2.5mの前方後円墳である。東城町では前方後円墳が、4基確認されているが、本古墳は最後の段階のものである。
後円部はすでに頂上部から盗掘され、石室の一部が露出している。石室の石材は石灰岩で、天井石2枚が露出している。石室の天井石の形状等から見ると、横穴式石室と考えられる。6世紀後半頃に築造された後期古墳で、この一帯を政治的にまとめた地域首長の墓であろう。
平成22年3月 庄原市教育委員会
前方後円墳というが、そう言われなければ見過ごしてしまいそうなくらい自然の一部と化している。後円部に上がると石があって隙間も見える。横穴式石室とのことだが、横からは入れない。古い墳形と新しい石室が融合する6世紀後半ならではの古墳と言えよう。
時代のトレンドを的確につかんでいたこの首長は、なぜここに墓所を築いたのか。「東城の市街地と戸宇の谷を結ぶ峠」にあるというのは重要な示唆だろう。戸宇は自然災害が少なく比較的安定した生産活動のできる土地があった。三次そして広島へと続く芸州路を掌握するにも適している。
戸宇の首長の御膝下を今、東西物流を担うトラックが昼夜を問わず通過している。ここが古代から営々と築き上げられた豊穣の地であることも知らないようでは、首長さまに失礼であろう。だが、実際に高速道路を走ると戸宇が何処か分からず、ましてや崖上に古墳があろうとは思いもよらないのである。
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