なくてはならないのに、ふだんそのありがたみに気付いていないもの。例えば、橋。目の前に向こう岸が見えても、橋なくして渡ることができない。人が飛び越えられるほどの幅であっても、車なら無理だ。交通の歴史は橋の歴史と呼んで過言はない。橋のない川に橋を架け、彼岸と此岸を結んで誰もが行き来できる社会を築こうとする努力がそこにある。
鳥取県日野郡日野町下黒坂と対岸の本郷に「孫四郎橋跡」がある。当時の地名では、下黒坂村根妻と渡村岩田とを結ぶ場所だそうだ。岩に開いている穴に橋脚があったらしい。
このあたりは川面に緑が映え、川岸の岩が変化に富む渓谷美で知られる。奥日野県立自然公園の一部で、寝覚峡(ねざめきょう)と呼ばれている。こうした美しさと交通の利便性は両立しないことが多い。説明板を読んでみよう。
往時、日野川の橋は原始的な板橋で、毎年数度の出水期には、橋が流失して両岸の住民は不便に悩まされていた。
渡村舟越孫四郎は、この地に着目して郡内より寄付を集め、天保二年(一八三一)全長二十間(約三十六メートル)、幅七尺五寸(約二、二五メートル)の板橋を創建した。橋脚は東西の橋詰からそれぞれ二間目と、二間半目に両岸に穴を堀って八本を立てた。
その子、孫右衛門また維持につとめ、明治十八年(一八九〇)籔津橋が完成するまで六回の架替や修理が行われた。
行く水はすめどにごれど諸人の 世渡りやすき孫四郎橋
天保十一年 久住 山県重助
この場所に架橋されたのは、集落に近いからではなく川幅が狭いからだろう。出雲街道の宿場町として栄えた根雨と藩の陣屋がおかれた黒坂を結ぶ道は日野往来と呼ばれた。現在の国道180号(183号)はもっぱら日野川の右岸を通過するが、江戸時代の道は孫四郎橋を境に根雨側が左岸、黒坂側が右岸を通っていたらしい。架橋に尽力した舟越孫四郎の住む渡村は今の本郷で、根雨と黒坂の中間に位置する。往来の旅人が難渋するのを見かねて一念発起したのであろうか。
日野町下黒坂と下菅を結んで「藪津(やぶつ)橋」がある。歩いて渡ることはできるが、ガードレールとJR伯備線の線路があって先へは進めない。
これは昭和24年5月に竣工した二代目で、下路ローゼ橋という構造である。柵が設けられ草が生えて、すっかり役目を終えた感のある藪津橋。対岸に渡る車は上流の下黒坂橋を利用している。
橋梁技術の向上とともに道路事情がよくなり、川を渡っていることさえ気にせず運転しているが、藪津橋とそのルーツである孫四郎橋の痕跡を見れば、先人の努力のおかげで今日があることを思い知る。川を渡る橋は人々をもつなぐ。社会は橋によって成り立っていると言ったら言い過ぎだろうか。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。