竜宮城の乙姫さまと聞けば、菜々緒がやってるCM、au三太郎シリーズを思い出す。あの目ヂカラにはちょっとかなわない。浦島太郎に桃太郎そして金太郎と、みんな同世代の仲良しだったのか。かぐや姫も織姫もいて、なんだか楽しそうだな。
こんなCMを見ていると、何が本当の物語なのか分からなくなるだろう。いや、それでよいのかもしれない。古来、物語は常に尾ひれはひれがついて豊かになってきた。三太郎シリーズは現代の御伽草子なのである。本日は竜宮を見てきた男の話をしよう。
高梁市川面町に市指定史跡の「寺山城跡」がある。
見事な堀切が本丸と東の丸を隔てている。かなり堅固に見えるこの城は、山城が高度に発達した戦国末期の様相を呈している。説明板を読んでみよう。
寺山城は、高梁市川面町川面市場の北側にそびえる標高約310mの城山(じょうやま)山頂に位置します。寺山城の歴史は明らかではありませんが、難波経俊(つねとし)を城主と伝える記録や三好尊春(たかはる)が居城したと伝える記録があります。また、元亀3年(1572)に杉三郎重知(しげとも)が寺山城に入城し、天正2~3年(1574~1575)に三村元親が毛利軍と戦った「備中兵乱」では、毛利軍の攻勢により、重知は寺山城から備中松山城へ撤退。その後、毛利軍の小早川隆景が、寺山城へ陣を移し、付近一帯の青麦を刈り取り、元親軍を兵糧攻めにしたといわれています。
寺山城は主に三つの峰からなり、西から順に「西の丸」「本丸」「東の丸」と呼ばれており、また「東の丸」からさらに南東に派生する尾根上にも曲輪があり、「馬場」と呼ばれています。「西の丸」西端から「馬場」東端までは約650mを測り、城内には 曲輪・堀切・竪掘・横掘など、中世山城を構成する主要な防御施設が整っており、市内における山城としては珍しいものです。
高梁市教育委員会
備中全域を巻き込んだ毛利と三村の一大決戦「備中兵乱」の舞台となった。三村勢の杉重知を名将小早川隆景が降し、この城を陣としたという。寺山城の今の姿は、毛利氏の手によるものかもしれない。説明文中には、この城に拠った武将として4名が挙げられている。すなわち難波経俊、三好尊春、杉三郎重知、そして小早川隆景である。
このうち三好尊春は阿波の武将らしいが、この頃の備中守護は阿波にも勢力を有する細川氏だったから、その関係で派遣されたのかもしれない。難波経俊は備前の名族で、『平家物語』の「殿下乗合」や「小教訓」に登場する難波経遠は伯父にあたる。江戸中期の地誌『古戦場備中府志』寺山城の項には、次のように記されている。
城主難波六郎経俊。平家の功臣たり。天正兵乱に、芸陣此所に惣陣を移し、古瀬東西の麦を薙捨訖。此時杉三郎兵衛尉松山に籠城す。
難波経俊が寺山城主となった経緯はよく分からないが、経俊には竜宮で乙ちゃんに会ったというすごい伝説がある。史実からますます離れていくけれども、面白さに誘われて話題を移すことにしよう。『源平盛衰記』留巻第十一「経俊布引の瀧に入る事」である。
譬へば小松殿、布引の瀧遊覧の為に御参りあり、景気実に面白し。山より落つる岩波は糸を乱せるかと疑はれ、岸に湛えたる淵水は、藍を染むるかと誤たる。泉の妙美井(しみづ)揚げざれど、影涼しくぞ思召しける。小松殿仰せられけるは、「瀧壺覚束なし、底の深さを知らばや、此の中に誰か剛者のしかも水練ある。」と尋ね給ひければ、備前国の住人難波六郎経俊進み出でて、「甲臆はしらず候、瀧壺に入りて見て参らん。」と申す。「然るべし。」とて免されたり。経俊は紺のしたおびかき、備前造りの二尺八寸の太刀随分秘蔵したりけるを脇に挟んで、髪を乱してつと入り、四五丈もや入りぬらんと思ふ程に、底にいみじき御殿の棟木の上に落ち立ちたりけるが、腰より上は水にあり、下には水もなし。あな不思議と思ひながら、さら/\と軒へ走り下りたれば、水は遙かに上にあり。こは何とある事やらんと、胸打騒ぎけれども、心をしづめてよく見んと思ひて、軒より庭に飛び下り、東西南北見廻せば、四季の景気ぞ面白き。東は春の心地なり。四方の山辺も長閑にて、霞の衣立渡り、谷より出づる鶯も、軒端の梅に囀り、池のつらゝも打解けて、岸の青柳糸乱る、松にかかれる藤の花、春の名残も惜し顔なり。南は夏の心地なり。立石遣水底浄く、汀に生ふる杜若、階の本の薔薇も、折知り顔に開けたり。垣根に咲ける卯の花、雲居に名乗る杜鵑、沼の石垣水籠めて、菖蒲みだるゝ五月雨に、昔の跡を忍べとや、花橘の香ぞ匂ふ、潭辺(ふちべ)にみだれ飛ぶ蛍、何とて身をば焦すらん。梢に高く鳴く蝉も、熱さに堪へぬ思ひかは。西は秋の心地なり。萩女郎花花薄、技指しかはす籬(まがき)の内、朝は露に乱れつゝ、タは風にやそよぐらん。梢につたふ鷜(むさゝび)、庭の白菊色そへて、窓の紅葉葉濃く薄し、妻喚ぶ鹿の声すごく、虫の怨みも絶え/゛\なり。北は冬の心地なり。木々の梢も禿(かれ/゛\)にて、焼野の薄霜枯れぬ。降り積む雪の深ければ、言問ふ道も埋もれぬ、池の汀に住みし鳥、去つては何処に行きぬらん、峯吹く嵐烈しくて、檐(のき)の筧もつらゝせり。庭には金銀の沙(いさご)を蒔き、池には瑠璃のそり橋、溝には琥珀の一橋を渡し、馬瑙(めなう)の石立て、珊瑚の礎、真珠の立砂(たていさご)、四面を荘(かざ)れり。経俊立廻りて、あなめでた、これやこの費長房(ひちやうばう)が入りける壺公が壺の内、浦島が子が遊ばしけん名越の仙室なるらんと、最(いと)面白く思ひつゝ、暫したちたりけれども、如何にととがむる者もなし。良立聞けば、仄かに機織る音のしければ、太刀取直して、声を知るべに内へ入り見れば、年三十許りなるが、長八尺もあらんと覚ゆる女なり。経俊には目も懸けず、機を操つて居たりけり。難波六郎問ひけるは、「是れは何処にて侍るぞ、いかなる人の栖ぞ。」と云へば、女答へて曰く、「これは布引の瀧壺の底龍宮城なり、怪しくも来る者かな。」と云ひて又も云はざりけり。経俊浅ましと思ひて御所の上に飛び上り、棟木の上に立ちたれば、腰より上は水なりけり。力を入れて躍りたれば水の中に入り、暫しあつて瀧壺へ浮み出でたり。小松殿待ち得給ひて、「いかにや/\。」と問ひ給へば、経俊有りの儘にぞ語りける。詞未だ終らざりけるに、瀧の面に黒雲引覆ひ、雷鳴りあがりて大雨降り、いなびかりして目も開き難し。経俊は腹巻に太刀をぬき、小松殿に申しけるは、「我は必ず雷の為に失はれぬと覚え侍り、程近く御渡りあらば御過ちもこそあらんか、少し立ち給ひて事の様を御覧候へ。」と申せば、「実にさるべし。」とて、二町許りを隔てて見たまへば、黒雲経俊を引廻し、雷はたと鳴るかとすれば、又雷の音にはあらで、はたと鳴る音しけり。やがて空は晴れにけり。其の後小松殿人々相具し給ひて、近く寄りて見給ひければ、経俊は散々にさけきれて、うつぶしに臥して死にけり。太刀には血付いて、前に猫の足の如くなる物を切り落したり。かかりければ小松殿常に物語し給ひけるは、「是れ程の大剛の者にて有りけるを、思慮なく其の身を亡ぼしたること、我が一期の不覚なり。」とぞ仰せける。智者の千慮一失ありと云ふはかやうの事にや。小松殿薨じ給ひて後は、前右大将の方様の者は、世は此の御所へ進(まゐ)りなんとて悦びけり。穏(おだ)しかるまじき事とも知らず、かやうにののしりけるこそおろかなれ。
ある時、平重盛が布引の瀧に遊びにやって来た。見事な景色だ。落ちる水は千々に分かれ、滝壺は藍で染めたような色をしている。手で汲んだわけではないが、さぞかし冷たいことだろう。重盛はお尋ねになった。
「この滝壺の底はどのくらいの深さなのか。この中に勇気があって潜れる者はおるか」
備前出身の難波六郎経俊が進み出て言った。
「勇気があるかどうかは分かりませぬが、滝壺に入って見てまいりましょう」
「よく申した」
経俊は紺のふんどし姿になり、秘蔵の備前刀を脇に挟んで飛び込んだ。十数メートルもぐると御殿があり、その屋根に立ったところ、腰より下には水がないではないか。これは不思議と軒まで降りると、水は遥か上にある。いったいどういうことかとドキドキしてきたが、落ち着いてよく見ようと庭に飛び降りた。四方を見回すと、四季の景観が連なっていた。
東は春の景色。山はのどかに霞がたなびき、ウグイスが梅の木でさえずっている。池のほとりの柳は青く揺れ、松にかかる藤の花も、春の終わりを惜しむかのようである。
南は夏の景色。岩の間を流れる水は清く、水際にはカキツバタが生えている。階段の下でいばらの花が分かってますよと咲いている。垣根には卯の花、空にはホトトギス、古い石垣と雨に咲くアヤメ、昔の人の営みが偲ばれる。タチバナの花の香りがしてきた。水のほとりで舞うホタルは、どうして身を焦がしているのだろうか。セミは高いところで「アチチチチ」と鳴いている。
西は秋の景色。垣根の中で交錯するハギ、オミナエシ、ススキの穂、朝は露に濡れ、夕方には風にそよいでいる。こずえにはムササビ、庭には白菊、窓から見るモミジは色とりどり、メスを呼ぶ鹿の声が響き、虫の音がとぎれとぎれに聞こえてくる。
北は冬の景色。木々は葉を落とし、野焼きの跡地に霜が降りる。降り積もる雪が深いので、恋人のもとへも行けなくなった。池の鳥も飛び去ったが、どこへ行くのだろうか。山風が強く、軒先の樋にはつららができた。
庭には金銀の砂、池には瑠璃のそり橋、水路には琥珀の橋、瑪瑙や珊瑚、真珠を使って造られ、美しく飾られている。これらを巡った経俊は
「じつにめでたい。まさに『後漢書』方術列伝に登場する費長房が入った壺の中、あるいは浦島太郎が訪ねた仙人のすみかだ」
とても面白くて、しばらくとどまっていたが、「何をしておるのか」ととがめる者もいない。耳を澄ませると機織りの音がかすかに聞こえる。太刀を取り直し、音を手がかりに中へ入って見ると、2メートルをはるかに超える女がいた。歳は30くらいだろうか。経俊に目をやることもなく機織りをしている。経俊は尋ねた。
「ここはどこなのか。いかなる人のすみかなのか」
「ここは布引の瀧の底にある竜宮城さ。何しに来たんだい」
女は答えると、また黙ってしまった。経俊はヤバいなと思って御殿の上に飛び上がり、屋根に立ってみると腰より上が水だった。気合いを入れて水の中に入ると、しばらくして滝壺に浮かび上がることができた。
「どうであった?何があった?」
待ちかねていた重盛が問うと、経俊は見たことをありのままに語った。語り終わらないうちに、黒雲があたりを覆い、雷が鳴って大雨が降り、いなびかりで目も開けられなくなった。経俊は鎧を着けて太刀を抜き、重盛に申し上げた。
「私はきっと雷にやられるでしょう。近くにいらっしゃると危険でございます。少し離れてご覧くださいませ」
「わかった」
200メートルくらい離れて重盛が見ていると、黒雲が経俊を取り巻いて、雷がバリバリ鳴ったり、雷ではなくバシッと音がしたりした。やがて空が晴れたので、重盛が供の者と見に行くと、経俊は傷だらけでうつ伏して死んでいた。太刀には血が付き、その前に猫の足のようなものを切り落としていた。
こんなことがあったので重盛は、いつも人々に語っていた。
「これほどの勇気ある者を、私の浅い考えで死なせてしまったことは、一生の不覚だ」
『史記』淮陰侯列伝の「智者の千慮一失あり」という警句は、まさにこのことだ。重盛公が亡くなってからは、弟の宗盛に栄華が集まると家来は喜んだ。無事では済まなくなるとも知らず、このように騒ぐのは愚かなことであった。
それにしても驚きだ。竜宮城に行けば必ず菜々緒のような乙ちゃんが会えるのかと思ったら、怖い雰囲気の大女がいたというのだ。しかも悪いこともしていないのに復讐され、殺害されるという悲しいお話。
世の中はいいことばかりでなく、理不尽な悲劇にも巻き込まれることだってありうる。リーダーたる者、思い付きで部下を苦しめてはならぬ。言動はよくよく考えてから行うべし。難波経俊の死を無駄にしないために、しっかりと胸に刻みたいものである。
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