一茶には「朝からだるう」見えたという夏の雲。おそらく朝からムシムシしていたのだろう。ひと雨降らして涼しくしてくれ、と頼むような気持ちだったかもしれない。今はまだ6月だから気温はそれほどでもないが、マスク内の湿度は100%超で結露して困っている。このままでは、だるう見える以前にめまいがしてへたり込むだろう。
梅雨が明ければ、あの暑い夏がやって来る。気持ちよく夏の雲に出会いたいものだ。本日は夏の秀句から始めよう。
津山市南町一丁目に「西東三鬼(さいとうさんき)句碑」がある。
句碑を取材しているのに、うしろの「テッチャン、歓迎」が気になる。津山を代表する食文化はテッチャンことホルモン、そして、鉄ちゃんは扇形機関車庫へ向かうのだ。
だが市街地にはいくつもの文学碑があるという文化的側面を忘れてはいけない。ここは新興俳句の旗手と呼ばれた西東三鬼を生んだ俳句の街であり、市は西東三鬼賞という文学賞を設けている。万成石と黒御影石から成る句碑には、何が詠まれているのか。手っ取り早く裏面の説明を読んでみよう。
西東三鬼の句
父のごとき夏雲立てり津山なり
寺坂昌三書 日展特選受賞作家
西東三鬼(さいとう さんき)
明治三十三(一九〇〇)年五月十五日、津山市南新座に生まれる。本名、斎藤敬直。早くに父を亡くし、津山中学に入学するも、母も死去し、東京の長兄に引き取られる。青山学院に編入、日本歯科医専卒。三十三歳の時俳句に出会い、没頭。新興俳句の旗手として俳壇の寵児となる。戦後、山口誓子を擁して「天狼」を創刊。自らも「断崖」を主宰する。現代俳句協会、俳人協会の創立に尽力する。昭和三十七(一九六二)年四月一日没。功労により俳壇葬とされる。墓所は津山市西寺町成道寺。平成五年、津山市は、その業績を顕彰するため、俳句文学賞「西東三鬼賞」を設ける。
平成二十九年三月 西東三鬼賞委員会
私は中一の時に父を亡くしたが、まだ背丈も伸びていない時分だったから、大木のような父の残像を抱いている。六歳で父を亡くした三鬼にとっては、空から見下ろす入道雲のような存在だったのだろう。この夏、津山駅に降り立ったら、ホルモンうどんを食べる前に、まなびの鉄道館に行く前に、一目見ておきたい文学スポットである。
津山市南新座は「西東三鬼生誕の地」であり句碑が建てられている。この地で少年時代を過ごした敬直(けいちょく)は、旧制津山中学に学んだ。俳句を始めたのは歯科医として働いていた時である。
碑に刻まれた「枯蓮のうごく時来てみなうごく」は、昭和二十一年に薬師寺の池のほとりで詠まれた。「風にゆらゆら揺れている」でも「一度にどっと揺れ動く」でもない。「うごく時来てみなうごく」は静から動への転換が鮮やかに描かれいると同時に、戦後初期の社会情勢も含意されているように思える。蓮は枯れてなお動く時を待っていたのである。
津山市西寺町の成道寺に「西東三鬼句墓碑」がある。
三鬼が亡くなったのは神奈川県三浦郡葉山町堀内の自邸であったが、墓は故郷において代表作の句碑として建てられた。揮毫は盟友の山口誓子である。
「水枕がばりと寒い海がある」は、東京都大田区大森北一丁目にあった昭和十年当時の自宅で、肺浸潤の熱にうなされていた経験に基づいている。作られた当初は「がばり」だったが、後に「ガバリ」と変えられた。
私がこの句を国語の教科書で知った時、熱を出して寝込んだ私の頭の下に母親が入れてくれた水枕を思い出した。頭を動かすたびにゴボゴボと音がした。だから「ガバリ」をイメージするのは容易だったが、そこに寒い海を見出すとは、なんたる感性、なんたる才能。
感動を共有しようと、うちの子にこの句を解説したのだが、「ふーん」と言うだけで関心を寄せる様子はない。よく聞けば水枕をしたことがないそうだ。確かに、発熱の際には冷えピタとやらを貼るばかりで、水枕をあてがったことはなかった。
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