鳥取県で東の因幡を代表するのは鳥取市、東の伯耆を代表するのは米子市である。古代から米子は伯耆の中心だったのかと勘違いしそうだが、実際には倉吉市が中心だった。本日は古代伯耆の官庁街をレポートすることとしよう。
鳥取県倉吉市国分寺に国指定史跡の「伯耆国府跡 国庁跡」がある。
市街地に近いのに、これほどまでに広々とした風景に出会えるのも珍しい。この空間に説明板の復元図を再現してみる。古代の官人の姿もイメージ出来たら完璧だ。説明板を読んでみよう。
倉吉市の西方に広がる丘陵地の東端に、国司が政務を司った国庁跡、それに関連する官衙(役所)である法華寺畑(ほっけじばた)遺跡・不入岡(ふにおか)遺跡、国の華ともいわれる国分寺跡が近接して所在します。国庁跡・法華寺畑遺跡は、平成12年に不入岡遺跡を加え、史跡『伯耆国府跡』と名称が変更されました。不入岡遺跡は前身国庁の可能性があります。
このあたりは、古代からの景観がよく保存されており、古代の地方行政のあり方を示す重要な地域です。
国庁跡は、東西273m・南北227mの規模で、儀式などをおこなう内郭(政庁域)と、実務をおこなう外郭(官衙域)からなり、東辺にはさらに東西51m・南北149mの張り出し部が設けられています。内郭には南門・前殿・正殿・後殿などを規則的に配置し、外郭には北側と西側で建物群(曹司)が確認されています。
国庁跡は8世紀中頃に造営され、10世紀代まで存続したと考えられます。その間4期の変遷があり、Ⅲ期(9世紀中頃)には掘立柱建物から礎石建物へ建て替えられています。
文部科学省 倉吉市教育委員会 平成三十年六月作成
伯耆国司として赴任した著名人に山上憶良がいる。霊亀二年(716)から約5年間。憶良もこの広い風景を見ていたのだろうか。憶良といえば貧窮問答歌がよく知られている。「風雑(まじ)り 雨降る夜の 雨雑(まじ)り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を とりつづしろひ…」とあるのは伯耆での体験をもとにしているとの説があり、後述する国分寺跡と法華寺畑遺跡の間に歌碑が置かれている。
倉吉市国分寺に「伯耆国分寺跡」があり、国の史跡に指定されている。
上の写真が金堂と講堂の跡、下が塔跡である。七重塔だったのだろう。美しく復元整備されており、国土交通省による「日本の歴史公園100選」と古都保存財団(現在は古都飛鳥保存財団)による「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されている。ちなみに歴史公園100選には後述の法華寺畑遺跡も、歴史風土100選には先述の国庁跡も含まれている。
これだけ100選が集中しているのは、地域の誇りとして遺跡保護に努めてきたからだろう。当局の英断に敬意を表したい。説明板を読んでみよう。
国分寺は、奈良時代の天平一三年(七四一)、聖武天皇の国分寺建立の詔によって、当時六九カ国(現在の県のような行政区画)に分かれていた国ごとに建てられた寺院である。国家の平安を祈るためにつくられた国分寺には、僧寺と尼寺の二つがあり、僧寺を金光明四天王護国之寺、尼寺を法華減罪之寺と呼んだ。
伯耆国分寺跡は、古くから瓦・礎石などによって、その存在を知られていたが、昭和四五年からはじまった発掘調査で、より明確となった。寺域(寺院の範囲)は、東西一八一・九メートル(六〇〇尺)・南北一六○メートル(五二八尺)あり、周囲には土塁と溝がめぐっている。
本尊仏を安置する金堂や、僧侶が仏法を講じ、法会を行う講堂などの中心建物は、寺域の西寄りにあり、塔は金堂東南の離れた位置にある。しかし回廊・中門・僧房などの位置や規模についてはまだわかっていない。
なお、伯耆国分尼寺跡(推定)は国分寺の北東約五〇メートルのところにある。そして、記録によると、平安時代の天暦二年(九四八)に、両寺とも焼失し、その後には、再建されることもなかったようである。
倉吉市教育委員会
国分尼寺跡が「北東約五〇メートル」という至近距離にあるという。僧寺と尼寺はセットだが、ここまで近接して建てられることはないらしい。さっそく行ってみよう。
倉吉市国府に「法華寺畑(ほっけじばた)遺跡」がある。上の写真が北門からの眺め、下の写真は復元された西門である。「伯耆国府跡 法華寺畑遺跡」として国の史跡に指定されている。
国分尼寺なのに国府跡として史跡指定されるとはどういうことか。この遺跡には説明板のほかに縮尺模型も設置されており、見学者が往時をイメージしやすく工夫されている。その模型に付属している説明板を読んでみよう。
この遺跡は、古代の伯耆国の政治の中心であった伯耆国庁に関連する役所跡と推定しています。150メートル四方の大きさで、まわりには溝と板塀をめぐらし、四つの門があります。南門を入ると正面は広場で、奥の方に中心となる三棟の建物が並んでいます。南側の広場は儀式などに使われたようですが、どのような役所であったのか具体的にはわかっていません。また、平安時代の記録からは伯耆国分尼寺であった可能性もありますが、みつかっている建物はすべて、柱を地中に据える掘立柱式の建物で、寺院とするにはふさわしくないので、やはり役所であったとみられます。
法華寺畑遺跡は「役所」だったのか「国分尼寺」だったのか。考古学の立場からは「役所」と結論付けているようだ。いっぽう文献史学の立場としては、平安時代の記録を確かめておく必要があるだろう。太政官の文書を預る重職にあった壬生家伝来の古文書を集めた『続左丞抄』には、次のような文書が収められている。
■■■倉忽■■■数百人迷■■■勢已熾。人力難耐。■■還何院。堂舎焼亡已了。僅廻方計。奉出御願仏像。爰法■金光明寺。相去五丈許。法華寺在北。金光明寺■■■発。吹大煙向南。其危尤在■■■数人失神。走向件寺。各■■■滅遷火。方今安置仏像。忽無其寺。■■■其所国司。須早造其替。而去年異損之上■■荐。亡弊之民不堪早造。爰件道興寺在管久米郡。去府十許町。仏殿広大。雑舎数多。■■願尤■其便。望請官裁。■准諸国例。以件道興寺。被裁給法華寺之替。令修御願将省吏民■■者。左大臣宣。奉 勅依請者。国冝承知。依宣行之。苻到奉行。
従五位上守権右少弁藤原朝臣 左大史正六位上三国真人
天暦二年十二月廿八日
国分尼寺の堂舎は焼けてしまったが仏像は運び出すことができた。尼寺から五丈ばかり離れたところに国分寺があったが、煙が南に流れて火が移ってしまった。民が疲弊しており再建が困難なため、府から十町ほど離れた道興寺に移したいと国司が申し出ている。左大臣の藤原実頼はこれを認めた。
国分寺の北五丈ばかり離れた場所に国分尼寺があったという。五丈は15mほどで、国分寺跡と法華寺畑遺跡との距離としては近すぎるが、南北の位置関係は正しい。この太政官符に出てくる法華寺は国分尼寺とみて間違いはない。発掘調査で火災の痕跡も見つかっているそうだ。
やはり国分尼寺であった。そう結論付けてもよさそうだ。建物は役所で、機能は国分尼寺。この矛盾を解決するのが倉吉市教育委員会『史跡伯書国府跡 法華寺畑遺跡環境整備事業報告書』(倉吉市文化財調査報告書第106集、平成12年度)が示す結論である。
法華寺畑遺跡は、伯耆国庁に付属する官衙、それも鎮撫使の鎮所的な施設として造営されたが、後に国分尼寺として改作された。
なるほど役所か寺かの二つに一つではなく、両方だったのだ。しかも官衙としては「鎮撫使の鎮所」かもしれないと示唆している。聖武天皇は、天平三年(731)に山陰道鎮撫使に藤原麻呂(ふじわらのまろ)を、天平十八年(746)に北陸山陰両道鎮撫使に巨勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)をそれぞれ任命している。
治安維持と行政監察の任務を持つ臨時官が駐屯する施設として造営されたが、その役目を終えたのちに国分尼寺として活用されたということなのだろう。現代の自治体もバブル期に建設したバブリーな公共施設の活用に苦慮している。古代人の知恵に学んで、はじめから掘立柱式で建てておけば解体も早かったであろうに。
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