小学校6年生だったか、家庭科の裁縫で枕カバーの刺繍をした。デザインは自由だったので、私は菊の御紋にした。車でもなく飛行機でもなく、なんで菊の御紋? 先生は何もおっしゃらなかったが、怪訝な顔をなさっていたことを覚えている。菊の御紋にしたのは、少年右翼だったからではなく、シンプルで縫えそうだったからだ。
真庭市蒜山下和(ひるぜんしたお)に「後南朝史跡」がある。普通のお墓にしか見えないが、市指定文化財(史跡)である。
平成の大合併前、この墓は中和村の指定文化財だった。『中和の文化財』には次のように記されている。
右 文化十年癸酉(1813年)
正面 覺實圓鏡居士
左 十二月十二日
規模 台座三段 下段の台座90㎝ 全長1.55m
十六弁菊花紋章は上部の台座にある。菊花の径は17㎝
※墓石には名前の記載なし、本興寺過去帳によれば文化十年十二月湯谷 綱右衛門とある。
実際の右側の刻字は「文化十癸酉年」である。1813年といえば、欧州ではナポレオン戦争の真っただ中、本朝では化政文化が花開いていた。後南朝最後の西陣南帝が消え去ってから340年ほど経過していた。いまさら後南朝でもあるまい。
ただし美作地方には、後亀山天皇の孫を初代として1709年に9代目が亡くなるまで皇統を保ってきたという、独自の後南朝伝説がある。この関係者の末裔ではないか、とも考えられている。が、詳細は不明とのこと。
当時の人々は菊の御紋について、三つ葉葵ほどには畏れを感じることがなく、当局からの使用制限もなかったので、お墓に彫って後南朝の子孫をアピールするのもありだったのかもしれない。
私が枕カバーに刺繍したのは32弁の十六葉八重表菊であったが、このお墓はパスポートと同じ16弁の十六葉一重表菊である。これは後南朝の子孫であることのアピールなのか、単に彫りやすかったからなのか。いずれにしろ中国地方の山中で、後南朝の史跡が文化財指定されていること自体が貴重である。
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