昭和史研究の第一人者として知られる保阪正康氏の著書に『十九人の自称天皇』がある。熊沢天皇、外村天皇、佐藤天皇、竹山天皇、三浦天皇など、戦後たくさんの自称天皇が出現したという。その多くは南朝の末裔だと称したが、確かに、後南朝の歴史はほとんど闇の中であり、子孫がいたとしても不思議ではない。
本日は後南朝の正統な皇位が美作の地で継承されていた、という話をしよう。
久米郡美咲町飯岡に「良懐親王陵」がある。
懐良(かねよし、かねなが)親王なら知っている。後醍醐天皇の皇子で九州で活躍した征西大将軍、「良懐」の名で明から日本国王に封ぜられた人物である。名は似ているが、この皇子とは時代がまったく異なる。美作の良懐親王は南朝正統最後の皇族なのである。石碑には多くの情報があるが、簡潔にまとめられているのは次の文章である。
南朝正系の皇統
今から凡そ五百五十年前の嘉吉三年癸亥十月二十九日美作国勝田郡植月庄北方宮城に於て第百壱代高福天皇が御即位になり、以後第百九代の良懐親王に至るまで弐百五十四年の間美作国には行宮があった。即ち元禄十年丁丑八月二日徳川五代将軍綱吉は津山鶴城主故従四位下侍従森美作守長成公の遺領を没収し同年十月十一日鶴城を攻め名家森家を国除すると同時に、南朝皇統御領をも没収して第百九代の良懐親王から親王号を取り上げ民家に格下して今日に至る。
説明しよう。嘉吉三年(1443)に後南朝勢力が京都御所を襲撃し神璽を奪った。禁闕(きんけつ)の変である。これが史実だ。これに対し、美作後南朝では三種の神器すべてを奪還し、美作に運んだとしている。この神器のもとで嘉吉三年に即位したのが第101代の高福天皇である。以降の歴代は次のとおり。
美作後南朝
一代 尊義(高福天皇) 後亀山天皇の子良泰親王の子
二代 尊雅(興福天皇・南天皇)
三代 忠義(西天皇)
四代 尊朝
五代 尊光
六代 尊通
七代 尊純(青蓮院宮)
八代 高仁(高仁天皇)
九代 良懐
後南朝の記録に登場する名前もあれば、能書家として知られる青蓮院宮尊純法親王の名も見える。実在の高仁親王は後水尾天皇を父、徳川和子を母とする皇子で、寛永三年(1626)生まれである。皇位継承を期待されたがわずか三歳で亡くなった。後水尾天皇は寛永六年(1629)に明正天皇に譲位した。
これに対し、美作後南朝の高仁天皇は、寛永三年に後水尾天皇から皇位返還の名目で譲位された。これは大発見の新たな事実ではないか。津山藩主森忠政が亡くなった寛永十一年(1634)に、高仁天皇は幕府によって廃位されている。そして最後の良懐親王は、森家が改易となった元禄十年(1697)に、幕府によって親王号を剥奪された。
森家と関係が深いようだが、そのつながりは、忠政が美作に入国する慶長八年(1603)に始まる。美作後南朝に対する善処を、地元武士が忠政に約束させたのである。その内容とは、当時の尊純親王への忠節、正式の天皇への推挙、両統迭立による皇位継承を働きかける、など壮大なものだ。こうした動きに危険を感じた幕府は、忠政の暗殺(実際には食中毒で意図的かは不明)や森家の改易を契機に、美作後南朝をつぶしにかかったというわけだ。
平民とされてしまった良懐さんは、宝永六年(1709)に西大寺へ参詣しようと吉野川を下る途中、船の転覆によって亡くなってしまう。後南朝は吉野の山奥に人知れず消えていったと言われるが、大和と美作の違いはあっても、やはり「吉野」で終焉を迎えていたのであった。
美作市土居に「八咫鏡発祥之地」がある。
八咫鏡は三種の神器の一つ。美作と播磨の国境付近のこの地に、どのようなゆかりがあるのだろうか。説明板を読んでみよう。
八咫の鏡由来
昭和三十三年七月十三日、作東町天王谷の小社(右方約三十メートルの山裾)より天皇家継承の印しとされる八咫の鏡が同所春名義雄氏によって発掘されました。
美作の東部、勝田郡植月地方には天皇家正統とする後南朝の歴史があり、史実を裏付けるものとして貴重な品であるが、現品は発掘者春名氏によって山口県の赤間神宮に奉献され安置されて居る。
一説によれば源平の興亡を極めた壇ノ浦の合戦において、土居・妹尾家(前方の山の持ち主)の先祖が、命をかけて持ち帰ったものとのロマンに満ちた逸話もあり、よって安徳帝を祀った同社に奉献されたものか、発掘者春名氏も今は物故の人となり知るすべもない。
土居地区史跡保存整備委員会
美作後南朝ゆかりの神器だという。高仁親王の時、幕府による没収から免れるため、妹尾家の先祖が持ち帰って埋めたものだという。それともやはり、妹尾兼康ゆかりの妹尾家の先祖が壇ノ浦から持ち帰ったものであろうか。
実際には何の関係もない古鏡をありがたがっているだけのことかもしれない。そもそも伝説にはそういう性質があり、そう信じるかどうかの問題でもある。さらに言えば、正史そのものも広く一般にそう信じられているに過ぎないのかもしれない。多くの人を納得させるだけの説得力ある根拠を示すことができるかが、正史と伝説(あるいは偽史)との境目なのである。
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