オリンピックスタジアムこと国立競技場で来夏、本当にオリンピックが開催されるのだろうか。仮に開催されたとしてもマラソン選手がこの競技場にゴールすることはない。せっかくだから、幻のマラソンコースを記念に記録しておくことにしよう。
国立競技場→富久町→水道橋→神保町→神田→日本橋→浅草雷門→日本橋→銀座→増上寺→銀座→日本橋→神田→神保町→皇居外苑→神保町→水道橋→富久町→新国立競技場
会場が札幌だの東京だのともめていた頃がむしろ懐かしい。懐かしいといえばザハ・ハディド氏設計の新国立競技場案だろう。「森喜朗古墳」と揶揄されたが、こんなことになるなら、あの曲線美に費用を投入しておればよかった。ザハさんも亡くなってしまい、今となっては何もかもが幻のように思える。
招致段階で「コンパクト五輪」とアピールしていたにもかかわらず、実際にはどんどん大掛かりになった。ところが、現下のコロナ禍によりコンパクトにせざるを得なくなり、縮小縮小と考えているうちに、ついには消えてなくなってしまうような気もする。
現国立競技場はやはり美しい。周囲の景観のマッチして落ち着いた印象だ。設計は隈研吾氏で、施工は我が国を代表するゼネコン、大成建設である。今日は大成建設にもゆかりがある明治時代の橋を話題にしよう。
長崎市出島町と江戸町を結んで「出島橋」がある。一見よくあるトラス橋に思えるが、かなりの価値があるようだ。国の登録有形文化財にするよう文化審議会が答申しているので、秋には登録されるだろう。
よく見ると上部に蝙蝠の形をした橋名板があり、その両側には唐草の装飾が施されている。瀟洒な雰囲気を漂わせるこの橋のプロフィールを、二種類の説明板で読んでみよう。
出島橋
明治時代に行われた中島川の変流工事に関連して、明治23(1890)年に中島川の河口に鉄製の橋(新川口橋)が架けられました。その後、この橋は、明治43(1910)年に旧出島橋の老朽化に伴い、現在の場所に移設され、名称を出島橋と改称しました。
構造は、部材がボルトで結合されたプラットトラスで、その鉄材は、アメリカ合衆国から輸入され、架設工事は、日本人監督の下に日本土木会社が行いました。
一般に使用されている道路橋としては、日本で最も古い橋梁であり、日本の近代橋梁建設の歴史において貴重な歴史的遺産であることから、平成15年11月に土木学会より選奨土木遺産として認定をうけました。
※選奨土木遺産:全国に多数ある近代土木遺産の中から選出された貴重な先人達の土木遺産出嶋橋
中島川変流工事に伴い、1890年(明治23年)に中島川河口に新川口橋として架けられました。現在の出嶋橋は、1910年(明治43年)に現在の位置に移設・改称されたものです。施工は日本土木会社、技師岡実康の監督によるもので、長崎市の発注により架橋されました。米国から輸入した錬鉄を用いたピン接合のプラットトラス橋で、我が国における鉄製トラスの初期の橋です。供用中の道路橋では最古の橋で、日本の近代土木技術史の観点からも重要な構造物であり、長崎が誇る近代化遺産の1つです。
この橋は現役最古の道路橋だという。現存最古なら、大阪市鶴見区の緑地西橋(旧心斎橋)が明治6年、江東区にある八幡橋(旧弾正橋)が明治11年の架設だが、どちらも記念に保存されている状態だ。これに対して出島橋は、立体に見える路面標示「イメージハンプ」まで施されて活躍中である。明治23年の架橋当時は新川口橋として現在の玉江橋の東側にあったようだが、明治43年に出島橋の架け替えのため移設されたのである。
ピン接合とは、部材をボルトまたはリベットにより一点で接合することで、プラットトラスとは、斜材が逆ハの字に配置された橋の構造である。錬鉄とは、比較的軟らかく粘りがあって鍛造容易な鉄で、鋳鉄や鋼に比べて炭素含有量が少ない。
施工は日本土木会社である。この会社は、大倉財閥を築いた大倉喜八郎が、渋沢栄一や藤田伝三郎とともに明治20年に設立した。同25年に解散し、大倉土木組、大倉土木株式会社を経て、現在の大成建設に至っている。日本最古の道路橋から未来のオリンピックスタジアムまで、さすがに大成建設はいい仕事をしている。
オリンピック開催の可否判断は来春だそうだ。この冬に始まったコロナ流行は夏になれば収まるだろうとタカをくくっていたが、猛暑の中で汗を噴き出しながらマスクをする事態になった。時間が経過すれば何とかなるだろうという希望的観測は、けっこう儚いものだ。オリンピックスタジアムになろうがなるまいが将来、地図にも記憶にも残る競技場になることは確かだろう。