74名のうち61名の首をはねたのである。処刑されたのはポルトガルのマカオからの使節団。来航を禁じたにもかかわらずしつこくやって来るので、日本の決意を思い知らせることにしたのだ。13名が助命されて送り返されたのは、そのためであった。寛永十七年(1640)のことである。
その昔、元からの使節を幕府が処刑したことがあったが、案の定、元は大軍を派遣して日本に襲いかかってきた。暴風雨に運よく助けられただけなのに、断固たる決意が日本を守ったという、歴史的な勘違いをしてしまった。
61名を斬首し、船は焼却処分とした。どう考えても暴挙にしか思えないが、思い付きで実行したのではなく、前年に発していた有名な鎖国令(第五次)に基づく処置であった。条文を読んでみよう。
自今以後かれうた渡海之儀、被停止之畢、此上若差渡ニおいては破却其船、并乗来者速可被処斬罪之旨、所被仰出也、仍執達如件
とはいえ、ここまですれば戦端を開く口実にされてもおかしくない。口実どころか人道に対する罪そのものであろう。
長崎市大黒町の長崎駅前交差点のあたりに「佐賀藩蔵屋敷跡」がある。説明板があるから、それと知ることができる。
寛永十九年(1642)、佐賀藩に外国船の脅威から長崎を守るという重要な任務が与えられた。ポルトガルによる報復戦争の最前線に立ったわけだ。藩では「なんでうちの藩が…」と愚痴をこぼすのではなく、幕府からの信頼の証と名誉に思い、誇りをもって警備に当たっていた。
だが現実には、当時のポルトガルはスペインからの独立、オランダの台頭で戦争の余裕はなかった。日本侵略という壮大な構想はなく、マカオの維持のために日本との通商を必要としていたのだ。説明板を読んでみよう。
正保4年(1647)にポルトガル船2隻が長崎港へ来航し、幕府はこれを拿捕するため、西国各藩に48,000人の動員を命令しました。これ以後、各藩は長崎に専用の蔵屋敷を設置して、聞役(長崎と諸藩との連絡に従事する家臣)その他を置き、長崎奉行との連携をより密にしました。この付近には、佐賀藩蔵屋敷(現・大黒町14番)があり、長崎警備を担当していました。文化5年(1808)フェートン号事件時の警備担当は佐賀藩でした。幕末には、大隈重信、副島種臣、佐野常民らが活躍しました。明治維新後は熊本鎮台に付属する警備施設となり、砲台を装備していたことから、昭和30年代までこの辺一帯を台場町とよんでいました。
正保四年(1647)、ついにポルトガル船2隻がやってきた。佐賀藩をはじめ西国各藩が動員され、ポルトガル船が逃げないように長崎湾を封鎖した。日露戦争における旅順港閉塞作戦を思い出す。軍神広瀬中佐ゆかりの大作戦だ。しかし、ポルトガル船は攻撃してこなかった。
しかも通商も要求してくることなく、来航目的はスペインからの独立を知らしめるためだという。「それはそれは、おめでとうございます」と言うしかなかった幕府は、食糧や薪水を与えて帰すことで一件落着させた。もちろん「二度と来るな」と厳しく言い渡すことは忘れなかった。
この件以来、長崎に佐賀藩の常駐事務所が開設され、福岡藩と交代しながら長崎港の警備を担うこととなる。ただし、初めのころは緊張感があったろうが、平和が長く続くと、すっかり慣れっこになってしまう。そんな泰平の眠りを覚ましたのは蒸気船ではなくて、帆船のフェートン号であった。
イギリスの軍監フェートン号がオランダ戦に偽装して長崎港に入港し、オランダ商館員を人質に取って薪水と食糧を強要してきたのである。当時のオランダはナポレオンの弟を国王とするホラント王国であり、イギリスとは敵対関係にあった。欧州のナポレオン戦争が極東の長崎に飛び火したわけだ。
長崎奉行松平康英はイギリス船焼討を考えたが、警備の佐賀藩が勝手に兵員を減らしていたので今回の有事に対応できず、やむなくイギリスの要求を受け入れることとなった。人質は解放されフェートン号は長崎を去って、事なきを得たように見える。
しかし長崎奉行は国威を辱めたと責任を痛感して自刃、佐賀藩も家老の深堀豊前、鍋島主水、聞役の英藤右衛門など7名が同じく自刃、藩主鍋島斉直には幕府から百日の閉門が命ぜられた。この事件は佐賀藩にとって非常に苦い記憶として残り、後の藩政改革、近代化の原動力となる。
国防の最前線にあって活躍もしたが大失態もしでかした佐賀藩。江戸時代の外交史が「鎖国」の一言では語りつくせないのを一番よく知っているのは、この佐賀藩であった。
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