藤色という絶妙に美しい色がある。明るい青紫なのだが、言葉で説明するよりも、フジの花を思い出していただくと十分だろう。清楚で気品のある色をした花の房が藤棚から下がるのを見るだけで、四季ある星に生まれ合わせたことを感謝せずにはいられない。
喜んでいるのは人間だけではない。いつだったか、見事な藤棚だなあと感心して近付くと、ブーンという重低音と共にクマバチの群れがいて、後ずさりしたことがある。今日は藤棚のレポートだが、花はとうに過ぎた時分に訪れたため、藤色の一切ない写真でご海容いただきたい。
高松市飯田町の岩田神社に「孔雀藤」という見事なフジがある。幹がかなり向こうに見え、枝の広がりに圧倒される。
近くに四国八十八ヶ所の82番と83番を結ぶ遍路道が通過している。お遍路さんの休憩所もあって、この日は会うことがなかったが今も巡礼がさかんなのだろう。本津川に架かる永代橋は接待橋ともいい、たもとに顎無地蔵がある。その前に高松市弦打地区地域おこし事業推進委員会が設置した説明板があり、次のように記されている。
「孔雀藤」は、樹齢八〇〇年を数えると推定され、その名称は、明治三十年(一八九七)ころに、孔雀の羽のように艶やかな藤であるというところから付けられた。
昭和十四年(一九三九)、香川県天然記念物の指定となり、昭和四十六年(一九七一)県の自然記念物の指定となる。
(この孔雀藤は、岩田神社境内にある。)
説明板を読んだ人は、ちょっと寄り道してみようか、と思うだろう。私もその一人だ。香川県には文化財指定とは別に、条例に基づいて「香川県自然記念物」を指定し保護する制度がある。藤棚の前にも説明板があり、次のように記されている。
この藤は、一本の幹から広がり、棚の高さ二メートル、広さ二十三×二十九メートルにわたり一メートルから二メートルのみごとな紫色の花房をつけ通称「孔雀藤」と呼ばれています。
古くから、この藤を慕って訪れる人が絶えず、数多くの賛美の歌なども残されています。
ふじなみや おと無き風の よりどころ
梅下庵主人
1~2mの花房だという。その季節には壮観な光景が見られるのだろう。句の作者は近江出身の岡田魯人(ろじん)という明治期の俳人で、各地を行脚したというから、ここには花の季節に立ち寄ったのかもしれない。確かに、房の微妙な揺らぎからは春の風が感じられる。
次に少し古い記録を調べてみよう。昭和19年発行の『讃岐香川郡志』第十一編「名所、旧蹟」第十八章「弦打村」に「飯田の藤」が記載されている。弦打(つるうち)村は昭和31年まで存続した自治体で、現在の飯田町がかつての大字飯田である。読んでみよう。
大字飯田の岩田神社の境内にある。樹齢四百余年の老木で、根の廻り一丈八寸ばかり、枝葉を張れる棚の坪数五十二坪といふ世に珍らしい藤である。開花の時には長さ四尺に達する花房地に達し、春風に揺めく姿は実に美観である。此の樹は花先づ開きて葉は後に出るのが特徴である。飯田の藤といへば近郷に嘖々たるものである。夏は青葉の影に涼風を呼び、秋は老樹の下に虫の音を聞き、冬は樹上の皚々たる白雪を見る。四時何れの時も佳ならざるなしである。
さすが昔の人は表現力が数段上だ。漢文の素養が感じられる。美しいだのきれいだのという陳腐な言葉を使わずに、四季の情景を絵巻のように描いている。私も「花の時期が過ぎた」と嘆かずに、「青葉の影に涼風を呼び」とすべきだったのだろう。
興味深いのは樹齢である。説明板では800年だが、郡史では400年となっている。この時間の伸び縮みは相対性理論では説明できまい。戦後の科学的知見が正確な樹齢を解明したのだろうか。それとも治承二年(1178)の神社創祀に合わせて800年としたのだろうか。
近年は『鬼滅の刃』ブームで訪れる人も多いそうだ。なんでも鬼は藤の花が嫌いなのだとか。近くに鬼無(きなし)という駅がある。鬼がいなくなったのは、桃太郎が退治したのではなく孔雀藤のおかげなのかもしれない。
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