マスクで悩むなんぞ人類史上初の事態かと思ったら、なんのことはない、百年前に経験していた。スペイン風邪である。黒いマスクにも違和感を感じていたが、何のことはない、菊池寛の黒マスク写真が残っている。昭和14年だという。本日は、文春砲で名高い文藝春秋の創業者である、菊池寛の生まれ故郷からレポートする。
高松市番町一丁目の中央公園に「菊池寛像」がある。昭和31年の建立で新田藤太郎による制作である。新田は香川県出身で、戦前では東京都港区青松寺の「肉弾三勇士像」が代表作として知られる。
何も足さず何も引かない、菊池寛そのままの像だ。それくらいのリアリティを感じる。本人に会ったことがないので本当は分からないが。私にとって菊池寛と言えば『恩讐の彼方に』だ。憎むことと赦すこと、この激しい感情の果てに残されたものとは。感動した私は青の洞門に行きたいと思いつつ、30年来その機会を得ていない。
コロナ禍になって、地元の菊池寛記念館が『マスク』という小品(大正9年発表)があることを紹介してくれた。マスクを巡っては、当初から売り切れだの転売だのと大騒ぎとなり、今やつけていない輩は入店禁止だのと、最大級のストレッサーとなっている。とんでもない時代に生まれ合わせたものだと嘆いていたところだった。
冒頭に書いたように、こんなのは空前絶後の異常事態かと思っていたが、ネット公開されている『マスク』を読んで少し安心した。主人公は、暖かくなってもういらんだろうとマスクをせずに出かけた。途中で見かけた男は…。
見るとその男は思ひがけなくも、黒いマスクを掛けて居るのだった。自分はそれを見たときに、ある不愉快な激動(ショック)を受けずには居られなかった。
これまでオレは意識高い系としてマスク着用を心掛けてきた。しかし、こんなに暖かいのに、マスクつけるか? マスク一つでこれほどまでに感情が揺り動かされるとは。百年前の人も同じように悩んだんだな。
私にはマスクは昔から白一色という固定観念があり、黒なんぞヤンキーのするものというひどい偏見があった。しかし、ここ数か月でマスクはおしゃれアイテムの一つとなり、印象的な黒がおしゃれでかっこよく見え始めた。これは最近の流行かと思っていたら、菊池寛『マスク』にも「黒いマスク」が登場していたのである。
さすがの筆致で読む者をぐいぐいと引き込み、自分の考えがいかに頼りないかを思い知らされる短編小説『マスク』。中央公園で菊池寛像を見た昨年は、こんな事態になるとは思いもよらなかった。拠るべきものがないように感じる昨今だが、文学作品とかブロンズ像とか芸術性の高いものだけは、世に流されずに真理を伝えている。
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