住民投票が近付く大阪都構想では、推進派が「安全・安心で豊かな住民生活ができますよー」と訴えているが、甘言を弄する、とは権力者のよくやることだから気を付けたほうがよい。大阪維新ではなく明治維新の際に新政府が「年貢半減」と言って、民衆の気をひきながら、やっぱりできんわと撤回したことさえあるのだ。政府を信じて「年貢半減」を触れ回った相楽総三の赤報隊は「偽官軍」とされてしまった。
本日扱う農民騒動も、きっかけはこの甘言「年貢半減」であった。何があったのか、事件を説明する前に、ゆかりの人物のお墓にお参りしたので紹介しよう。
津山市油木北に「本多応之助の墓」がある。墓碑には「本多應之助勝日子之靈」と刻まれている。
昭和59年に建立されたお墓で、三面に応之助の事績が詳しく述べられている。最も重要な部分を抜き出してみよう。
安政四年備後地方ヲ手始メニ伊予讃岐地方ヲ御道布教ノタメ巡回数多ノ人々ヲ救イ助ケタガノチ鶴田騒動ニ差添人トシテ関与シ捕吏ニ捕エラレ明治四年津山ニテ昇天サレタ
布教に寄与したことと騒動に関与したこと、二つの事績を読み取ることができる。私は今回、応之助を騒動に関与した人物として紹介しているのだが、むしろ黒住教の布教者として評価されているらしい。墓建立の発起人は「黒住教愛媛県布教連盟」である。
彼の関与した鶴田騒動とは何か。時は慶応四年(1868)、鳥羽・伏見の戦いで討幕戦は始まっていた。幕領鎮撫に当たっていた岡山藩は作州南部の龍野藩預地に入り、天朝の御趣旨として「年貢半減」を触れて回った。ところが2月9日に早くも布告は誤りであったとして取り消されてしまう。
納得のいかない農民は5月29日に「天朝直支配」を求めて京都に出訴したが、6月初めに龍野藩預地2万石余は岡山藩と鳥取藩の周旋により鶴田藩に与えられることとなる。この三藩は水戸徳川家出身の兄弟が藩主であった。
農民らは鶴田藩当局に取り入り、その黙認のもとに庄屋の不正追及を始めた。糾弾された庄屋は詫証文を書かされたが、先鋭化する動きに疑問を持つ農民は運動から離れ、集訴派、脱落派、藩当局と立場を異にする三者が対立する混乱状態に陥った。
12月13日ついに明治新政府が鶴田藩に騒動の鎮圧を命じた。翌年4月9日になって藩当局は天朝御主意として、双方の是非曲直を問わず提出書類は一切取消、庄屋は取締不行届きとして免職とする処分を下した。
鶴田藩は年貢の二割引き下げなど事態の鎮静化に努めたが、11月16日に集訴派による庄屋への襲撃が発生、藩当局は武力でこれを鎮圧した。納得のいかない集訴派は新政府の弾正台に越訴した。当時の弾正大弼は前岡山藩主池田茂政だったので心強く思ったのかもしれない。
しかし当時、越訴は違法であり、訴人は捕らえられることとなる。騒動に関与した多くの農民が藩当局に捕らえられ、新政府の裁判によって明治三年8月18日に、流刑4名、徒刑3年3名、同2年3名、同1年5名などの処分が下された。
以上が鶴田騒動の概要である。これに本多応之助がどのように関与するのか。墓碑には「差添人として関与し」とある。どういうことだろうか。『久米町史』上巻「近世の騒擾事件」の「鶴田藩農民騒動と本多応之助」は、次のような興味深い記述がある。
鶴田藩農民騒動の中では集訴側・落印側を問わず多くの狂歌・浄瑠璃・長唄等の宣伝文書や文芸が生まれたようである。「新版あほだら経」はその中での傑作であり、集訴側のもので、事件の発端から経過について面白おかしく、且つ微に入り細にわたって述べている。時期的には慶応四(一八六八)年四月から同年八月末頃までのことで史実は大体正確である。おそらく祭文語りがこれを唱え乍ら農民を組織したものであろう。
作者は正確にはわからないが、油木北村(現在の久米町大字油木北)の本多応之助と伝えられている。本多応之助は此の事件では大きな役割りを果したことは鶴田藩領騒擾参加者見立番付で勧進元の本行寺の差添人と見立てられていることでもわかる。応之助は明治四(一八七一)年九月一日牢死しているが、入牢は此のあほだら経の筆禍によるものといわれている。
その「新版あほだら経」の冒頭部分も読んでみよう。
なぐさみながら、よみあげまするお経のもんくは、なにがなんだとたづねてみたれば、作州五郡の庄屋がねんらい、あんまり大きなぬすみをしおった。そのしりだんだん百姓がほりかけ、あちらもこちらも村々さわだち、中中ちょつこりちょつとにやおさまりませんが、そのわけあらましもうしてみうなら、ぬすんだ中にも、とりわけ大きな事からあげます。頃は慶応はじめの丑年、天下に大きなさわぎがはじまる。長州征伐はじまりましたで、これまでお江戸へまわした御料の御年貢、芸州まわしとなったが庄屋のさいわい、五郡のお高が二万と七千八百六十三石五斗弐升八合で、村数あわせて九十と八村の年貢の惣辻八千石余じゃ。その内三分はお金で納まる。七分米納この米壱石かん米弐升は庄屋のとりぞめ、そのうへ石詰納となりたで、石に五升の口米余米もまるまるおとりぢゃ。お金も石がけ三百文づつお江戸へ納める入用の手当ぢゃ、およそで廿めぐらいも余計にとりたて、この辻お金が千両あまりお米が千俵、あまりは庄屋のもうけぢゃ。
このように庄屋の不正について調子よく語れば、聞く者は「そりゃあひでえ」と義憤を覚え「やっちゃれえ」と立ち上がることとなる。応之助は騒動の首謀者ではなかったようだが、扇動者として重要な役割を果たしていたらしい。
いま扇動者はネットの向こうにウヨウヨいる。ただ、その言葉は罵詈雑言に近く、あほだら経の芸術性にはほど遠い。最近、政治色の濃いメッセージをラップで語る人もいるようだが、これがあほだら経の今の姿なのだろうか。
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