「犬死」という言い方は、犬に失礼だし、それを人に使うのはもっと無礼だ。無駄な死もないし、有意義な死もない。人の行為ならば益・無益もあろう。有益な行為は大いに称賛されるべきだが、死は称えるのではなく悼むものである。
だが実際には、「だから言わんこっちゃない」と聞こえてきそうな自業自得がもたらす死もある。室町幕府6代将軍足利義教の死は「犬死」と呼ばれた。詳しいことは以前の記事「魂を鎮める奇祭」で報告している。評判のよくない義教だが、その墓所は静寂にして凛とした気品が漂っていた。
加東市新定(しんじょう)の安国寺に市指定文化財「安国寺宝篋印塔」がある。手入れが行き届いている禅寺である。
足利義教の首塚として「史跡」に指定されているのではなく、宝篋印塔そのものの価値を評価し「建造物」指定となっている。解説は比較的新しい説明板と古い石碑にあり、それぞれ次のように記されている。
当寺は、足利尊氏、直義が、戦没者慰霊と天下太平を祈願して、国ごとに一寺、一塔を建立したうちの播磨国安国寺である。
嘉吉元年(1441)赤松満祐は京都の私邸で室町幕府6代将軍の足利義教を殺害し、将軍の首級を奉じて播州河合(小野市)の堀殿城に帰った。そこから足利ゆかりの当寺まで大行列で運び、播州の禅僧を多数集め、盛大な法要を営んで葬ったと伝えられている。これを「嘉吉の乱」とよび、「嘉吉物語」や「嘉吉太平記」に詳しい。
首塚には凝灰岩製の宝篋印塔が築かれており、その様式、手法もこの時代に一致するものと思われる。
塔は総高173センチ、一重の反花座付基壇上に立つ。台石は各面とも輪郭の内に格狭間を、上部は反花を刻む。軸石の四面に蓮華座付月輪と金剛界の四仏の種子を刻む。笠の隅飾りは二孤で輪郭をまく。四角で構成された石塔である。
加東市由来記
足利尊氏天下を一統して征夷大将軍となり幕府を京都に開くに及び名僧夢窓国師の勧めにより大に善根を施さんとし全国六十余州に安国寺並に利生党を建立した。その播磨の安国寺が当寺であり開山は固山一鞏大和尚である。降って足利義教六代将軍となり大に将軍の権威を昂揚せんとするに及び播磨の豪族赤松満祐との間に隙を生じ一触即発の危機を孕むようになった。満祐は危険の身に迫るを思ひ偽計を以て将軍を京都の私邸に招き宴半にして俄に討って之を弑しその首を携へて所領播磨に逃れ帰った。実に嘉吉元年六月二十四日の事である。
満祐は叛逆の罪を悔い将軍の冥福を祈らんとし足利氏縁りの地たるこの安国寺に於て鄭重な葬儀を行ひその首をこの地に葬った。法名を普広院殿一品大相国公善山道慧大居士といふ。幕府は赤松征討の大軍を遣し赤松の本拠西播磨木山城を攻むるに及び満祐は遂に敗死した。
世に之を嘉吉の乱といふ。
昭和三十六年六月二十四日 嘉吉史蹟保存会しるす
殺した相手の首を持って帰るとは今なら猟奇事件だが、当時は敵を倒した手柄を示す行為だった。将軍義教の首はここ安国寺で盛大な法要により葬られている。満祐は本当に叛逆の罪を悔いていただろうか。
安定した新しき世を生み出すには、将軍を変える必要がある。その意味で将軍義教の死は有意義であろう。しかし義教公という一個人の死をぞんざいに扱うのは非道なことである。将軍殺害は義挙であり、盛大な法要で人の道を守った自分のもとには与同する大名が参集するはず…。満祐はそう考えていたのではないか。
ただし、亡き将軍の首は京都に返しているようだ。受け取ったのは禅僧季瓊真蘂(きけいしんずい)だとも瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)だとも言われている。また、義教の墓(首塚)は、⼤阪市東淀川区東中島5丁⽬の崇禅寺にも、京都市上京区寺町通今出川上ル鶴⼭町の十念寺にも、浜松市南区西伝寺町の西伝寺にもあるという。自業自得の犬死と切り捨てられた将軍義教であったが、死後は各地で鄭重に供養されているようだ。これも人の道だろう。
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