山また山という言葉は、この国において初めてふさわしい。作州への道を吉川英治は『宮本武蔵』でそう表現した。文中に播美国境の峠として「杉坂」と「中山峠」を挙げているが、中山峠は因幡街道という主要交通路にあった。本日は峠から作州宮本村へ下りる坂道をレポートする。
美作市宮本、兵庫県との境に「鎌坂峠」がある。兵庫県では「釜坂峠」と呼ばれる。今でこそ県境だが、かつての播美国境は峠の向こうにあった。吉川の言う中山峠とは、鎌坂峠を含む国境地域を指すのだろう。
承徳三年(1099)に因幡守として赴任する平時範が越えたのも、慶長八年(1603)に森忠政が美作入りしたのも、この峠だといわれている。
少し下ったところに「壱貫(一貫)清水」がある。
今も水が湧いている。私も坂道を上る途中で湧く清水に、どれほど助けられたことだろう。清冽な水で顔を洗い喉を潤せば、次の一歩を踏み出す気合いを得ることができる。説明板を読んでみよう。
この清水は山陰山陽連絡の因幡街道の鎌坂峠の八合目あたりで年中変らない冷い水が湧いている。旅人が立ち寄り喉を潤し「ほんに壱貫文(壱両は4貫)の値打ちがある」と云って峠を越していったところから壱貫清水の名がある。参勤交替の鳥取藩主は、峠茶屋でこの清水を金の茶釜で沸かしたお茶で休息をとり峠を越していった。また武蔵も、ふる里を後にする時、竹馬の友、森岩彦兵衛と別れを惜んで飲んだのもこの壱貫清水である。
美作市
貫は貫文で値打ちを表す。1貫は寛永通宝で千枚だそうだから、ザックザクのお金を得たくらいの価値ある清水なのだろう。金の茶釜で沸かしたお茶とはなかなか贅沢だ。それにしても、何で沸かそうが味は変わらないし、金製は重くて運びにくいだろうに。
しばらく下りると「本位田外記之助の墓」がある。
吉川版武蔵に登場する本位田又八のモデル、ではなく名前のヒントになった実在の人物である。外記という名乗りは古代の官職に由来する。説明板を読んでみよう。
天正17年(1589年)竹山城主新免伊賀守宗貫の家中に小ノ谷城を預る家老本位田外記之助がいた。城主宗貫が宿意をもち、平田無二斎に外記之助を討取るよう命じた。無二斎は外記之助が武功忠戦の者でありまた無二斎とは師弟の間柄でしたので再三辞退したが許されず遂に討果した。ここに本位田外記之助を葬り上意討にあった為墓石に文字を刻まなかったという。一方無二斎は「家中より妬み申すにつき引込む」とある。
美作市
平田無二斎は宮本武蔵の父とされる人物で、主君から新免の姓を許された剣術家である。武蔵は天正十二年(1984)生まれだから、この上意討ちには関係がない。
ただ、昭和になってからの後日談に面白いのがあるので紹介しておこう。吉川英治『随筆 宮本武蔵』の「離郷附本位田又八」には、次のように書いてある。
ここでちょっと、朝日新聞の学芸欄で抗議された帝大の本位田祥男氏に物申しておくが、あなたは小説と歴史とを混同しておられる。また、史実というものを、よほど信仰的に思いすぎておられると思う。この前の拙稿でも露骨にいった通り、史書そのものからして実に玉石同盆という厄介なもので、滅多に鵜呑みにすると、苺と思って石を噛むことが少なくない。
仄聞するところに依ると、大兄は拙作の小説宮本武蔵のうちに出した本位田又八という人物と同郷同姓であるために、帝大の学生諸君から、「又八、又八」という綽名(ニックネーム)をもって呼ばれ、甚だ迷惑をなすっているということなので、その点、僕もお気の毒にたえないのであるが、それを以て憤然、朝日新聞へ寄稿された大兄の「宮本武蔵と私の祖先」という一文には、こちらからも申し分がある。
本位田祥男は東京帝大教授の経済学者。岡山県の旧大原町出身だから、本位田一族に誇りを抱いていたのだろう。吉川の小説が史実と異なると抗議したものの、史実と異なるから小説なのだと反論されている。大河ドラマが史実と異なる、というNHKへのクレームと同じ類だろう。
もう少し下ると「武蔵の竹馬の友 森岩彦兵衛の墓」がある。
吉川版武蔵では幼馴染は本位田又八だが、地元では森岩彦兵衛と伝わっている。説明板を読んでみよう。
武蔵の竹馬の友であった彦兵衛は、慶長5年(1600年)武蔵が十七歳のとき関ヶ原の合戦に旅立つとき、鎌坂峠の頂上まで見送り、別れ際に形見として武蔵が杖にしていた枇杷の木刀を形見とし与えられたと伝えられている。
美作市
この逸話は、文化年間に成立したという地誌『東作誌』吉野郡讃甘庄宮本村の記述が根拠となっている。原文を読んでみよう。
木刀 一本 森岩長大夫家蔵
宮本武蔵政名所持 長さ三尺六寸五分 厚み一方は四分五厘 一方は二歩五厘 正中に稜あり此所にて厚さ五分上下とも端円くして首尾相同じ枇杷の木なり(色黒く大に煤付て古びたり)
相伝ふ宮本武蔵武者修行に出立の時森岩彦兵衛中山村の鎌坂まて見送る時武蔵突たる杖を森岩に与へて離別を告ぐ則木剣なり
当時、森岩家には武蔵遺品の木刀が伝わっており、その大きさまで記録されている。現存していないらしいが、あれば観光に役立ったであろうに。
武蔵生家跡の前を通って川を渡ると「讃甘(さのも)神社」がある。
村の鎮守という雰囲気の美しい神社である。武蔵とどのような関わりがあるのか、説明板を読んでみよう。
古くは実近山の大段にあったが天正の兵火にかかり、現在の位置におろしたもので、お宮の麓の集落という意味から大字宮本の名が生れた。
嘉永三年(1850年)改築されて現在に至る。代々十手の達人の家に生れた武蔵が幼年の頃この境内に遊び、太鼓を打つありさまを見て二本の撥を以って左右の音が等しいに感得し十手を二刀に替えたと言われている。
大原町
この説明板のみ合併前の「大原町」のままになっており、「美作市」シールの貼り忘れのようだ。両手に一本ずつの撥、撥の代わりに刀を持つ。発想は分かりやすい。この神社が二刀流発祥の地ということなのだろう。出典はやはり『東作誌』吉野郡讃甘庄宮本村の記述である。原文を確認しておこう。
武蔵幼年の時荒牧の神社に遊て太鼓をうつ有様を見二本の撥を以て左右の音等しきを感悟し十手を以て二刀に替たり空室に杵を釣り置き是を撃て錬磨すといへり
一本より二本の刀のほうが強そうに思えるが、実際に使いこなすには腕っぷしも技術も必要で、剣術としては一般的ではない。「二刀流」は近年もっぱら野球界の用語、特に大谷翔平選手の報道でよく見かけるようになった。バットを二本持つわけではないのに、表現として適当なのだろうか。
本日紹介の古跡がどこまで宮本武蔵の史実を伝えているかは疑問が多い。ただし長く語り伝えられてきたという事実があるのだから、伝説として楽しむのがよい。峠に向かってゆっくり登りながら武蔵の旅立ちに思いを馳せれば、洋々たる前途が自分を待ち受けているような気分になることだろう。
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