8年前の秋、島根県立古代出雲歴史博物館で「戦国大名 尼子氏の興亡」という秀逸な企画展があった。旅先で呑むことを目当てに、朝一番の電車に乗って、特急「やくも」と「一畑電車」を乗り継いで出雲大社前駅に降り立った。電車の中で早くも呑んでしまい注意散漫になっていたせいか、出雲大社前駅が国の登録有形文化財に登録されていることに気付くことはなかった。いわんや大社駅においておや。
出雲市大社町北荒木に国指定重要文化財の「旧大社駅本屋」がある。本屋(ほんや)とは建物の主な部分、母屋のことである。
雨の先日、車で歴史博物館に行ってきた。日本書記編纂1300年を記念した企画展をしていたのだ。開館後すぐに入場したので最初はゆったり観覧できたが、次第に人が多くなってきた。館を出て出雲大社前を通ると、小雨とはいえ、これまた人が多い。さらに進むと、稲佐の浜の駐車場もいっぱいになっている。
出雲大社の人気は今も昔も変わらない。今は車での移動が当たり前のようになっているが、特急や急行が花形だった昭和時代には、この大社駅にたくさんの観光客が降り立ったのだろう。団体客用の改札口が盛事を語り伝える。説明板を読んでみよう。
旧大社駅の概要
この建物は、旧大社駅(所在地 島根県簸川郡大社町)であります。
明治四十五年(一九一二)六月一日に開業し、平成二年(一九九〇)三月三十一日大社線の路線廃止により営業を閉じるまで、実に七十八星霜、明治・大正・昭和、そして平成へと、一日も休むことなく走り続け地域とともに発展しました。
そして、縁結びの神として知られる大国主命を祀る出雲大社の表玄関駅として親しまれ、お召列車の送迎・急行列車(大社~大阪・大社~名古屋)急行いずも号(大社~東京)・急行だいせん号(大社~京都)の直通運転をはじめ、戦後の最盛期には、年間の団体臨時列車二八〇本もの多きを数えました。
また一日平均乗降人員四,〇〇〇人(昭四七)・発着貨物一八〇トン(昭三六)にものぼり、鉄道輸送の粋を極めましたが、近時目まぐるしい社会構造の変化の陰に、利用度の激減を敢えなくし、数々のあしあとと郷愁を残しながら惜しくも歴史を閉じました。
宮殿風造りの、この旧・駅舎は
大正十三年(一九二四)二月十三日に改築されたものです。
駅長室には貴賓室を備え、待合室を二等と三等に区別するなど、また天井の高さ・シャンデリヤ等のゆかしさに往時を偲ぶことが出来ますが、一歩戸外の風に立つとき、波打つ大屋根・反りの整飾美に度肝を抜かれるのです。
かって出雲大社大祭礼の勅使参向の玄関駅として、その格式と風格をとどめ、全国に数多い駅舎の中でも比類稀なる建造美を秘めています。
この・旧駅舎にたたずむとき、歴史を閉じた今も、なぜか、動的な感にうたれるのです。
(平成二年七月記・日本鉄道OB会)
大社町
急行列車といえば、私は「砂丘」とその後継「つやま」しか知らない。「いずも」や「だいせん」で東京、名古屋、大阪と結ばれていたことが新鮮に感じる。優等列車が全国を駆け巡っていた時代を、知らないのに懐かしい。
「比類稀なる建造美」と最高の形容を得ているが、蓋しその通りであろう。あの東京駅も「東京駅丸ノ内本屋」として国の重文である。その辰野建築に優るとも劣らぬ大社駅の設計は、神戸鉄道管理局技手の丹羽三雄という人だった。建築界の巨人伊東忠太の影響もあるという。評者が「動的な感にうたれる」と興奮気味に記す気持ちが分かる気がする。
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