「夢幻」はファンタジーが好まれる昨今、よく見聞きする言葉だ。歴史好きなら「夢まぼろしのごとくなり」の織田信長を思い起こすだろう。好天に恵まれたこの日、私は夢幻の地を訪れようと林道をひた走った。深い山中を縫うように進むと、「夢」と「幻」のお寺にたどり着いた。本日はそのレポートである。
岡山県久米郡美咲町北に名刹「夢中山幻住寺」がある。堂々とした仁王門と手入れの行き届いた庭。エンジン音高らかに走った林道の先に、このような桃源郷があったとは。
山上にあるこの寺は後醍醐天皇にゆかりがあるという。美作の地は出雲街道が通過し、道に沿って後醍醐伝説が点在する。しかし、ここ幻住寺山は街道からずいぶん離れている。土肥卓治編著『吉備の伝説』(第一法規)には、次のように記されている。
夢中山幻住寺
旭町山手公文北にあって院庄からは南に当たる山で曹洞宗の幻住寺がある。天皇が院庄にとどまられたとき、夢にこの寺の観音が現れたので、天皇は使いを出して夢中山の山号を与えられた。
合併前の旭町には山手公文北という大字があったが、美咲町になってから北というシンプルな地名になった。帝のお泊りになった院庄からは南というより西の方角になる。山号「夢中山」の夢は帝の夢だったという。詳しいことが江戸時代の地誌『作陽誌』(西作誌中巻久米郡北分寺院部)に記されているので読んでみよう。
元弘初後醍醐帝蒙塵隠州宿蹕院庄帝宵夢於旅舎中与老比丘語及時論比丘慰諭曰遂浪瀰漫龍楼為動然済帝舟楫者海内咸然且帝仰観世音固篤護衛有憑何患不復九五哉帝問名荅云髻山僧倐放光明而去帝目送之影入翠巒恍然夢覚芬香馥郁着座不熄帝且怪且喜焉旦日視南峯秀碧当御座者宛然夢中所見也召人訊之応髻山帝感滋深輙勅遣使参詣後年重祚之日追思昔夢賜夢中山之号且敕州牧令整修堂宇封以良田於是寺僧因山号号寺幻住禅庵近来改幻住寺
元弘の初め、後醍醐天皇が隠岐への都落ちの途中、院庄でお泊りになった。天皇は夜、宿で夢を見られた。老僧と世の中の情勢について語り合っていると、老僧が帝をお慰めしてこう言った。波が広がり宮殿が流されています。しかし、帝をお救いしようとする忠臣は天下のそこここにおります。さらに帝は観音さまを信仰なさっているので、しっかりとお守りいただけることでしょう。こうした証拠があるのですから、どうして天子の位に戻れないと思いわずらうことがありましょうや。帝が名を問うと「髻山(もとどりやま)僧にございます。」と答え、たちまち光明を放って去ってしまった。帝が見ていると、その姿は緑色の峰に消えた。夢が覚めると、よい香りがただよっており、座ったままであった。帝は怪しみながらも喜んだ。明朝、南にある美しい山を見ると、そこにあったのは、まさに夢の中で見たままの景色であった。地元を知る者を呼んで尋ねると「髻山」だと答えた。帝は深く感じ入って、すぐに使者を参詣させるよう命じた。後年、天子の位に戻ったとき、昔の夢を追想して夢中山の山号を賜い、この地の行政官に堂宇を整えさせ良田を与えた。こういうわけで、寺の僧たちは山号にちなんで「幻住禅庵」と称したが、近年「幻住寺」と改めた。
児島高徳の白桜十字詩を思わせるような夢であった。そこにあった風景が現実に見えたのだという。確かに出雲街道を西に進んでいると、なだらかな稜線の中にポコッと抜きんでた幻住寺の裏山が目に入る。それは昔のちょんまげのように髪を頭の上に集めて束ねたようにも見える。だから「もとどり山」なのだろう。ちなみに三角点のある幻住寺山は少し北方にある。
また『作陽誌』によれば、幻住寺のご本尊は「正観音」である。通常は「聖観音」と書き表す。後醍醐天皇が復位できたのも観音信仰のおかげだと伝えたかっただろう。髻山の山容、夢中山幻住寺という今どきな名称、広大な伽藍、霊験あらたかなご本尊、そして後醍醐天皇ゆかりというブランド。それは夢でも幻でもなく、今も人々の篤い信仰を集めている。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。