石塔が立ち並ぶ墓地は、ご先祖様に感謝こそすれロマンに浸るような場所ではなく、ましてや知らない人のお墓には関心を抱かない。ところが、同じお墓でも古墳となるとイメージががらりと変わる。被葬者は知らない人の場合が多いのだが、「どのような人なのだろう」と追慕の思いが高まってくる。
そんな古墳が集まっている古墳群といえば、昨年7月に世界遺産登録された百舌鳥・古市古墳群、今年3月に国の特別史跡に指定された埼玉古墳群が大人気である。さまざまなグッズが売り出されており、古墳に対する興奮度UPに貢献している。
本日紹介する古墳群は、地域最大の前方後円墳と戦国時代の城砦との複合遺跡で、しかも大蛇伝説に彩られているという興味深いスポットである。ロマンに渇きを覚える歴史ファンにおすすめだ。
津山市二宮に国指定史跡の「美和山古墳群」がある。写真は一号墳である。
美しく整備されているので墳形がよく分かり、気持ちよく散策することができる。まずは説明板を読むこととしよう。
美作地方最大の前方後円墳を含む古墳群です。北から一号墳(前方後円墳・全長約八十三メートル)・二号墳(円墳・直径約四十メートル)・三号墳(円墳・直径約四十メートル)の三古墳で構成され、地元では、伝説にもとづきそれぞれ胴塚・蛇塚(じゃづか)・耳塚と呼びならわしています。
いずれの古墳も盛り土の表面を人頭大の河原石でおおい、二号墳・三号墳からは、円筒形の埴輪破片が発見されています。
その埴輪破片や一号墳の墳形などからみて、これらは古墳時代前半期(四~五世紀)にこの地域一帯で勢力をのばした豪族の墓と考えられます。
またこの地には、戦国時代(十五~十六世紀)に美和山城が築かれていました。
一号墳の前方部前面から後円部後方まで、東西に土塁状の遺構が残されており、一号墳北側のくびれ部に井戸跡もあります。これらはその美和山城に関連する遺構でしょう。
昭和六十年三月三十一日 津山市教育委員会
一号墳は丘陵上に築かれた前方後円墳という前期古墳の典型である。全長約83mはこの墳形としては地域最大だが、同地域勝央町の植月寺山古墳は前方後方墳で全長92mだ。これは単にデザインの好みの問題ではなく、大和王権との関係の差異を考えたほうがよさそうだ。
一号墳を「胴塚」と呼ぶのに対し、二号墳は「蛇塚」と呼ばれる。この伝説は古く、元禄年間の『作陽誌』西作誌上巻苫西郡古跡部神戸郷に次のように記載されている。
蛇塚
在二宮村相伝往昔宇那提森北至神楽尾山麓有大湫蛟龍常沕数為人患又舐損高野明神扁額父老設計而遂殺之埋其積骨為二丘一在龍澤寺山内一在民家後共曰之蛇塚亦巴丘之比也
蛇塚は二宮村にある。伝えられるところによれば、むかし宇那提森から北の神楽尾山のふもとに至る間に低い湿地があった。ここに棲息する龍は人に危害を加え高野神社の扁額を舐めて壊すので、村の長老が相談してこれを殺し、骨を埋めて二つの塚を造った。一つは龍澤寺の山内に、もう一つは民家の後ろにある。ともに蛇塚と呼ばれている。
どうやら二つの円墳、二号墳と三号墳をまとめて蛇塚と呼んでいたようだ。ところが…。
三号墳は「耳塚」と呼ばれている。昭和2年発行の『苫田郡誌』第十八章古伝説及び地名の由来第一節古伝説(三)宇那堤森には、次のように記されている。
往昔宇那堤森の北より神楽尾山の南麓に至る間大湫あり。巨龍棲息して常に人畜を害し又時々出でて高野神社の扁額を舐む、父老之を憂ひ計を設けて扁額に毒を塗り以て巨龍を斃す。里人その祟を怖れ焼きてその骨を同地龍澤寺の域内に瘞(うず)む、現に蛇塚と称するもの之なり。又これと相接して耳塚あり、巨龍の耳を埋めしものなりといふ。
『作陽誌』には登場しなかった「耳塚」について説明されている。二つの円墳は「蛇塚」「耳塚」と認識されていたらしい。だが「胴塚」は出てこない。調べを進めると昭和五年発行の『岡山県通史』上編第十六章「岡山県に於ける古墳」に次の記述が見つかった。
二宮村 胴塚 同上 前方長径二五間短径一五間 後円部、高二四尺、頂五四尺、底径一五〇尺
前方後円墳の一号墳が「胴塚」と呼ばれたことを示している。三基の古墳のニックネームが揃うのは昭和初期であった。前方後円墳が認知された後に、その墳形を巨龍の胴に見立てたのであろう。ここにも伝説の発達過程を見ることができる。
伝説に彩られた古墳群のもう一つの魅力は、戦国ロマンを併せ持っていることだ。城跡の遺構を訪ねよう。
一号墳の後円部に続いて「美和山城土壘跡」がある。まずは説明板を読んでみよう。
一号墳には、前方部前面から後円部後方(現在地)まで、古墳上に細長く土壘が延びています。
これは、後世に加えられた土盛の跡で、戦国時代(一五~十六世紀)にこの地に築かれていたと伝えられる美和山城の防壘の遺構と考えられます。
平成十七年三月三十一日 津山市教育委員会
この城を守っていたのは美作の名族立石家のご先祖さまだったようだ。現代は道路で分断されているが、美和山城と立石家は同じ丘陵の頂と麓の位置関係にある。『作陽誌』西作誌上巻苫西郡山川部神戸郷には、次のように記載されている。
美和山附古城
在美和村(今号二宮村)故名昔立石中務丞漆高光者城此山曾孫掃部亮久朝時後藤美作守勝基(三星城主)攻之久朝出兵於小田中(地名)邀撃之是名笠松陣既而久朝大敗而倶死者十七人(其墓在此村太名今漸犂成田畝)城遂陥久朝孫立石孫一郎於久米郡岩屋城有戦功毛利輝元小早川隆景中村大炊介以感状褒之所謂選士三十二人之一也事詳岩屋城下今二宮神官立石宮内少輔其胤也自祖至今兼社職
美和山城は今の二宮村にあって立石中務丞漆高光が居城とし、その曾孫掃部亮久朝の時、三星城主後藤勝基に攻められ、久朝は小田中村に兵を出し笠松に陣を築いて迎え撃ったが大敗し、十七人が討死し落城した。その孫の立石孫一郎は、毛利の武将中村頼宗の岩屋城攻め(天正9年/1581)に際し、三十二人の決死隊の一人として活躍し感状を与えられた。現在高野神社の神官は立石宮内少輔でその子孫であり、今に至るまで社家を務めている。
深い、実に深い古墳群である。国指定史跡となるはずだ。ここから国道179号を隔てて山を南に下りると立石家や高野神社がある。そしてその先に、美作一の大河吉井川が流れる。おそらくはたびたび氾濫を起こしていただろうから、その様子が大蛇のイメージになったのではないだろうか。