コロナ禍という未曽有の危局にあって、神仏への信仰心がますます篤くなり、家内安全、商売繁盛、心願成就と並んで「病魔退散」を求める祈りが高まっている。予言獣アマビエがお札やお守りに描かれ、手にする人々の心の安寧に一役買っている。もはや妖怪ではなく、流行神だ。
信仰にも流行があるのか、日露戦役から大東亜戦争までの間に、大日本帝国で大変もてはやされた神があった。「軍神」である。古来、タケミカヅチやフツヌシ、八幡大菩薩が戦勝や武運を祈願する神仏として信仰されていたが、日露戦役の旅順港閉塞作戦で戦死した廣瀬中佐以来、自らの危険を顧みず壮烈な戦死を遂げた軍人が軍神として顕彰されるようになった。
今年2021年は真珠湾攻撃から80年。改めて戦争について考える年になるだろう。いや、そうしなくてはならない。成功したとされる真珠湾での奇襲攻撃だが、64名が戦死している。このうち55名は飛行機搭乗員、残りの9名は特殊潜航艇の乗組員だった。
岡山市北区御津矢知(みつやち)に「片山義男兵曹長の墓」がある。「故海軍兵曹長勲六等功四級片山義雄之墓」「艦隊司令長官海軍中将清水光美書」と刻まれている。清水は片山の乗る潜水艦が所属する第六艦隊の司令長官であった。
昭和十六年十二月八日、海軍の特別攻撃隊が5隻の特殊潜航艇でパール・ハーバーの湾内に潜入し、米艦に魚雷攻撃を敢行した。戦果を上げることができたものの、すべての艇が帰還することができなかった。捕虜となった1名を除いて9名が戦死。片山二等兵曹もその一人で、二階級特進により兵曹長と呼ばれるようになった。
片山兵曹長ら9名は「九軍神」として、国威発揚の象徴として称賛され、その生家や墓には全国から弔問客が訪れたのである。昭和十七年夏に東京の青少年団が片山家を慰問に訪れた時のようすを、団長が次のように記録している。『別冊 軍神の家を訪ねて』(東京市青少年団、昭和18)より
軍神片山兵曹長の生家を慰問敬頌すべき命を受けた我々一行は、七月廿九日午前九時東京駅を出発。途中大阪及び岡山に各一泊、卅一日軍神の生家を訪れたのである。
軍神の生地岡山県赤磐郡五城村矢知は岡山の北、中国鉄道金川駅より東北へ二里、山間の醇朴な農村である。
三十一日午前八時金川駅着。金川婦人会の好意で駅前で少憩、茶華の接待を受け、自転車で午前九時五城村役場に小出村長を訪ね来意を述べ案内されて片山家に到る。
軍神の御両親を始め御一族近隣の方々の心からなるお迎へを受け却つて恐縮せざるを得なかつた。特に設けられた回向の席に列し、掲げられた遺影に東京市八十万の青少年団員を代表し感謝の香を捧げ、次いで墓参をすませ、一旦休憩所に引下り昼食を終り村長及び校長より交々軍神の話を伺つた。帰途五城国民学校を参観し軍神の幼時を偲びつゝ、午後二時半金川駅に着いた。
東京大阪間は特急つばめで移動、大阪では大阪城、岡山では岡山城と後楽園を訪れている。31日には金川駅から院庄駅に移動、作楽神社に参拝した。この日は津山に泊まり、次の日は姫新線で姫路に移動して姫路城、名古屋に泊まった後は名古屋城を見学、熱田神宮を参拝して特急かもめで東京駅へと向かった。決して平和ではないが、空襲の心配をしなくてよい時期の旅。さながら修学旅行であった。
墓碑には漢文の銘が刻まれている。末尾の日付が「昭和十九年十二月八日」だから、慰問団訪問後の建立である。戦争の期間中、お国のために尽くした模範的な軍人として、「軍神」は人々の心の支えでもあったのだ。
しかしながら、310万人余ともいう戦争犠牲者を出しての敗戦を迎え、「軍神」を向けられる眼差しは冷ややかになったという。同じように国のために身を捧げながら、名を挙げて顕彰される者と何の手がかりも得られない者。両者の死に何の差があるというのか。
実はうちの祖父も日中戦争初期に北京郊外で戦死し、勲章をいただいている。戦死者が少ない時期だったからこその栄誉なのだろう。いつどのように死を迎えようが、戦争にまつわる死に優劣などない。自ら進んでお国のために命を散らした若者は貧しいながらも勤勉だったなどと、死者に感動を求めてはならないのである。
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