ちょっとした渋沢栄一ブームだ。日本資本主義の父というから、私はすっかり商人の出身かと思っていたら、とんだ間違いだった。今年は大河『青天を衝け』、令和6年には一万円札に登場と、代表的日本人としての地位を固めつつある。歴史は現代を映す鏡と言われるように、歴史上の人物には注目される理由がある。経済再生が至上命題の我が国は、今こそ栄一の創業の精神を思い起こすべきなのだろう。
ただし、人物の評価は難しい。明智光秀はプッツン切れた反逆者ではなく、正親町天皇の御心を汲んだ忠臣だった。前作の大河では、そう描かれた。史実では信長もけっこう天皇の意向に配慮した忠臣であったと聞く。
現代はいざしらず、長い歴史において忠臣は高い評価を受けてきた。本日紹介するのは、明治の忠臣ブームにおいて高く評価された人物である。だからこそ十円札の肖像にも採用された。名を和気清麻呂(わけのきよまろ)という。
岡山県和気郡和気町藤野の和気神社に「和気清麻呂公像」がある。足元にある銘板は中曽根大勲位の書である。
和気清麻呂の真の面影を伝える肖像は、実はない。清麻呂の銅像や絵画は近代の産物である。明治23年の十円札に登場した清麻呂は、エドアルド・キヨッソーネが木戸孝允をモデルに描いたものだという。
今回紹介している銅像は、中でも最高傑作である。実直で筋を通す人柄を表しているかのようだ。いつ誰によって制作されたのか。説明板を読んでみよう。
和気清麻呂公の像について
この清麻呂公像は、高さが四・六三メートルの青銅製で、高さ一・八メートルの台座の上に建てられています。
像は、明治・大正・昭和にわたり、わが国彫塑界で活躍された、朝倉文夫氏が、自己の信念をこめて製作されたもので、昭和十六年、当時の彫塑界ですでに長老的存在となっていた氏の五十九歳の作品です。
それは、紀元二、六○○年奉祝展覧会に出品された後、橿原神宮に献納され、大和国史館で一般展示され、戦後は現在の奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(旧館)に所蔵されていましたが、清麻呂公生誕一、二五〇年を記念する年にあたり、奈良県と朝倉氏ご遺族のご厚志により、清麻呂公の故郷である和気町に譲与されました。そこで和気町では、石膏像であるこの作品の永久保存と同時に、清麻呂公の顕彰をはかるため、銅像として、この地に建立することとしました。
町民こぞって、郷土を愛した清麻呂公の里帰りを祝福し、像の建立をよろこび合い、ご尽力いただいた多くの方々に感謝の意をこめて、その経緯をここに記します。
昭和五十九年三月吉日 和気町長
なんと、「墓守」で知られる朝倉文夫ではないか。写実的でドラマティックな作品を多く残している。清麻呂像を代表作に加えてもよいくらいだ。清麻呂本人の人生には、どのようなドラマがあったのだろうか。再び、説明板を読んでみよう。
和気朝臣清麻呂は備前国和気郡より出で中央政界で重きをなし、わが古代国家の政治に不滅の足跡を残した。
延暦十八年、民部卿兼造宮大夫、従三位で没し、正三位を贈られた。公は人となり高直、身を省みず国事につくし、民政に通じ、高位にあって常に故郷の窮民の生活を忘れることはなかったと言う。
その姉広虫も節操に欠けるところなく、戦乱による孤児を養育して世に送り、その子広世、真綱、仲世もよく父の忠をつぎ、性敦厚、正義を曲げづと伝える。
平安新京の建設は清麻呂の推進するところであり、広世、真綱らは最澄、空海の外護者として、平安仏教の創始者となり、またみづからは大学寮に学び文史の復興に努力した。平安初期に文章道から多くの人材が輩出したのはそのためである。
清麻呂をはじめ和気氏一族は、平安時代の開拓者というにふさわしいであろう。
昭和五十九年三月吉日 東京女子大学教授 平野邦雄識
清麻呂の事績として具体的に挙げられているのは、平安京建設である。平安という時代を切り開いたパイオニアなのだ。時代の転換期となるであろうコロナ禍の今こそ、求められる人物像かもしれない。
境内をもう少し進むと「清麻呂公頌徳碑」がある。明治31年に吉備和気会によって建立され、篆額には「和気公頌」と刻まれている。撰文は服部芙蓉という漢学者である。刻字は明瞭で読み取りやすいが、見たこともない漢字や聞いたことのない語句が使われて難解だ。
それでも、冒頭の「孝謙複祚妖祲…」は道鏡事件を語ろうとしていると推察できる。圧巻は4行目だろう。
檮杌作羊天誅電撃竄逐遐荒淫霖初霽九重改明
檮杌(とうこつ)という怪物を羊となし、すばやく天誅を加えて、都から遠くへ流した。長かった雨が上がって空が晴れるのと同じように、ドロドロしていた宮中が明るくなった。
このように道鏡によってゆがめられた政治をただした人物として高く評価している。天皇への忠義が強調された明治という時代が期待する人物像だったのだろう。もう一度強調しておくが、歴史は時代を映す鏡なのである。
和気神社はもと猿目神社と称しており、和気清麻呂を祭神としたのは明治42年、現社名に改称したのが大正三年である。地元の神社が時代の要請で忠臣を祀る近代的な神社へと変貌したのだ。他にどのような見どころがあるのか、もう少し案内しよう。
神社にお参りすると狛犬が左右に並んで迎えてくれるが、ここは狛いのししである。参道の途中には石造りの「和気清麻呂公像」と「和気広虫姫像」も左右に並んでいる。清麻呂像は平成二年の建立だが、広虫像は卒去千二百年にちなんで平成十年に建立された。広虫姫の事績については以前の記事「『児童福祉の母』の流刑」で紹介しているので参照してほしい。
圧巻は本殿だろう。近付いてよく見ていただきたい。この超絶技巧に圧倒されるだろう。ご祭神のご神徳を形として表したかのような存在感を放っている。説明板を読んでみよう。
和気町指定重要文化財
和氣神社本殿
一、本殿は、明治十八年(一八八五)に造営された。近世初期の屋根形式に、江戸後期の装飾主義を取り入れた、芸術的にも技術的にもすぐれた建築物である。
一、大型の屋根と千鳥破風・軒唐破風の見事な調和、妻の箕甲・破風板の美しい曲線が、外観を優美で壮大に仕上げている。
一、細部では、向拝の手挟・母屋透彫などの絵様(装飾彫刻)が、すぐれた意匠と技術で表現されている。
一、門弟六十余人を有し、関西一の名人・大棟梁といわれた、田淵勝義(耘煙斎うんえんさい)の手による。彼の造営した寺社建築は八十五棟にのぼり、畿内から備後に及ぶ。
棟梁の田淵は、邑久大工と呼ばれる宮大工の集団を率いて各地に出向き、見事な建造物を残した。尾道の浄泉寺には圧倒される大本堂があるが、これも田淵勝義の仕事だそうだ。
清麻呂銅像の背後に「日本一の大絵馬」がある。巨大な看板にしか思えないが、形は確かに絵馬である。説明板を読んでみよう。
和気神社の大絵馬は、高さ八メートル、横幅十メートルで、これは日本一の大きさである。
周囲には徳永春穂画伯の絵画が配されている。真ん中にその年の干支が描かれ、これは毎年取り替えられる。
徳永春穂は伊東深水の弟子にして、国内トップシェアを誇る徳永こいのぼりの創業者である。「日本一の大絵馬」を検索すると、清麻呂が流された大隅(現在の霧島市)の和気神社の絵馬もヒットする。こちらは縦8.3m、横12.5mで、畳50畳分だそうだ。
同じ和気神社だから連携して大絵馬のPRに努めているのか、対抗して競い合っているのか。場所がかなり離れているから、参拝客の奪い合いにはならないはずだ。むしろ「両参り」とキャンペーンすれば観光振興になることだろう。
もうここまできたら、大河ドラマに打って出てはどうだろうか。スキャンダラスな政界の浄化に努め、新都建設に邁進したヒーローである。朝倉文夫の銅像に倣って、少し面長で迫力のある俳優を起用しよう。私のキャスティングでは竹野内豊さんなのだが。
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