アッピア街道の石畳を世界史の資料集で見たことがある。轍の跡が二筋残る美しい道だ。すべての道はローマに通ずの箴言のとおり、ローマ帝国の発展は道路の整備とともにあった。
道路整備は現在も日本各地で進展しており、特に山陰道の進捗状況には目を見張るものがある。おかげで鳥取島根の移動がずいぶん楽になった。地域振興に道の果たす役割は大きく、主要道路に点在する道の駅は、どこも観光客でにぎわっている。
鳥取県岩美郡岩美町大谷に「駟馳山(しちやま)峠の石畳道」がある。
石畳の道に町屋が並んでいれば京の祇園だし、周囲が竹林であれば「山路を登りながら、かう考へた」という熊本の石畳である。私も山陰の山路を登りながら、こう考えた。智に働こうとするが知恵が浮かばない。情に棹さすほど他人に関心がない。意地を通せば、そりゃ面倒だわい。けっこうな勾配なので息が上がる。
ここは「山陰道の石畳―駟馳山峠、蒲生峠」として、土木学会選奨土木遺産に選定されている。蒲生峠については「石畳の残る歴史の道」でレポートした。駟馳山峠にはどのような歴史があるのだろうか。説明板を読んでみよう。
駟馳山峠の石畳道
文化8年(1811)備前国(岡山県)の多十郎という六部(ろくぶ)さん(僧の形をした遍路さんで、厨子を背負い、念仏鐘を叩きながら、お経や念仏を奉唱して諸国を回った)がこの地方にやってきた。「但馬往来」とも呼ばれた旧山陰道のこの駟馳山峠は急な坂道でしかも赤土のため、どろんこですべりやすく、村人や通行人たちは大変難儀をしていた。この悪い道に出会った多十郎は驚き、「衆生の難儀を救うことは仏祖奉恩の道」と考え、石畳の道を作ろうと決意した。この念願を大谷の庄屋に相談したところ、庄屋もその道心に深く感激して協力することを快諾した。多十郎はこれに力を得て邑美郡・岩井郡・高草郡・鳥取・倉吉の鍬屋(すきや)などを回って喜捨(銀177匁4部(注:分の誤り)1厘)を受け、工事に着手した。また工事用具は、鳥取藩の特別の御慈悲によって用具貸下げの許可を得た。血と涙で作られた石畳道は1年がかりで完成し、この道を往来する人々は感謝の念に思わず念仏を高らかに唱えつつ上り下りしたといわれ、誰言うとなく「六部さん道」と呼ばれるようになった。六部多十郎は文化10年(1813)10月大谷で安らかな往生をとげ、法名を「渓山直道行者」とおくられ、供養塔が穴観音のすぐ下手に建てられた。
山陰海岸国立公園協会
お問い合わせ先 岩美町役場
四国八十八箇所のお遍路さんは今もよく見かけるが、日本全国六十六箇所を巡る人はいなくなった。時々全国巡礼の満願記念に建てた廻国供養塔を見かけることがある。
その六部の多十郎さんが、一念発起して雨でずるずるであった山道の改良に取り組んだのである。智に働いて人々を説得し、情に訴えて共感を集め、困難にも意地で立ち向かった。頭の下がる思いがする。
石畳の途中に大きなくぼみがあり、興味深い内容の説明板が添えられている。
名馬生月の伝説
石畳に残る穴は名馬生月の蹄(ひづめ)の跡だといわれています
名馬生月の活躍については「今も昔も先陣争い」をお読みいただきたい。その生月が石畳に蹄の跡を残したのだという。それでは時代が逆だから、生月の蹄跡が残る石を石畳に使ったのだろう。いや本当は牽強付会で、くぼみが馬の蹄跡に見えたというに過ぎないだろう。
しかし、いくらこじつけであっても天下に名高い名馬が登場するのには理由がある。幕末に成立した『稲葉佳景 無駄安留記(むだあるき)』というユニークな地誌を鳥取大学が紹介している。その翻刻文を読むと、駟馳山が次のように紹介されていた。
岩戸浦七山
海岸最一の高山なり。絶頂に駒ヶ池あり。鎌倉殿の駿馬池月なるもの出産の地なり。池の形僅に残り。
生月と池月は同じである。馬蹄大のくぼみを見て生月を連想した背景には、こうした伝説があった。荒唐無稽と一笑に付してはいけない。ぬかるむ山道が石畳となって利便性が向上し、源平のロマンまで添えられているのである。情に棹さして流されるのも好いだろう。
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