家具や姫と呼ばれた久美子社長が父に叛旗を翻して会社の抜本的改革に乗り出したものの、惨憺たる結果となり、会社は人手に渡ってしまった。ヤマダデンキの傘下のもと業績が回復しているというから、かぐや姫の心中いかばかりか。
安来市広瀬町富田(とだ)に「尼子興久(あまごおきひさ)墓」がある。
塩冶興久とも呼ばれるが、出雲の名族塩冶氏の養子となっていたようだ。父経久が勢力拡大のため送り込んだのだろう。説明板を読んでみよう。
興久は経久の三男である。原手郡七百貫の領地がもらわれなかった為に、天文元年八月父にそむき、敗れて妻の父備後冑山城主山内大和守直通にたよったが、天文三年自殺した。年三十八歳であった。
欲しいものをお父さんがくれないからといって暴れるのは、駄々っ子以外の何ものでもないが、話はそれほど単純ではないようだ。
中国地方における戦国大名のパイオニア、尼子経久は、名優緒形拳さんが大河『毛利元就』で演じていた。その圧倒的な存在感からか、領国支配は盤石であったと思いがちだ。ところが領内に不満分子は多く、とりわけ出雲西部から備後北部にかけての諸勢力が、興久を盟主として反経久の行動を起こしたのである。
父が創業した大塚家具を久美子氏が継承し、父勝久氏は「匠大塚」を立ち上げた。重臣たちは大御所のもとへ走り、姫は孤立を深めていく。そして、上述のように異国勢力に併呑されることとなったのである。いっぽう大御所は譜代の家臣と領民の気持ちをがっしりとつかみ、安定した領地経営を行っているということだ。
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