「自分の入るお墓がない」とか「お墓があるか分からない」という人が、都会にはけっこういるらしい。生活には必要ないから普段は困らないが、人生の終焉後にお墓に入ることはネアンデルタール人以来、人類の伝統となっている。
いまどきはお手入れカンタンだとか駅近だとか、利便性の高いお墓が好まれるようだ。墓地や墓石にこだわらなければ、ロッカー式納骨堂だって選択肢の一つになろう。本日はネアンデルタール人も現代人もびっくりの豪華なお墓の紹介である。
赤穂市有年原に「有年原・田中遺跡」がある。遺跡公園として整備され、多くの人が訪れている。上の写真では1号墳丘墓から2号墳丘墓を見ている。下の写真は1号墳丘墓の全体像である。
現代の人はいくら生前の社会的地位が高かろうと、圧倒感のあるお墓をつくることはない。葬儀でさえも大規模なものが少なくなり、コロナ禍が家族葬の増加に拍車をかけている。ただ、昨年10月の中曽根元首相の葬儀に国費が9643万円が充てられたことから分かるように、大勲位級の政治家においては地位と葬儀の規模は無関係ではない。
有年原・田中遺跡の主はどのように葬られているのだろうか。説明板を読んでみよう。
有年原・田中遺跡は弥生時代中期から室町時代までの複合遺跡であり、特に注目されるものに弥生時代の墳丘墓がある。
墳丘墓は直径19メートルの円形で、幅約5メートル、深さ約1メートルの周溝(しゅうこう)によって区画されており、幅約1メートルの排水溝が西に伸びる。また墳丘の東には墓道(ぼどう)となる陸橋部が、西には祭祀の場である突出部がそれぞれ備わっており、墳丘の斜面には河原石などが貼り付けられていた。周溝内からは葬送儀礼に使われた装飾豊かな特殊器台や、特殊壺、供献用高坏(きょうけんようたかつき)が出土しており、この遺跡は古墳の出現を考える上でもたいへん貴重な遺跡である。
平成2年11月 兵庫県教育委員会
直径19mの円形の墓が第1墳丘墓で、第2墳丘墓は直径15mとひと回り小さい。どちらも円形で周りに溝があるので円形周溝墓と呼ばれている。弥生墳丘墓には方形周溝墓というのもあるが、円形墳丘墓は瀬戸内、方形周溝墓は近畿という地域性がある。この有年原・田中遺跡が吉備の影響を受けていることは、棺の周りに復元された土器からも分かる。説明板を読んでみよう。
そなえられた土器
棺の周りに並べられた装飾豊かな器台と壺は、墳丘墓の周溝内から発見されたもので、墳丘墓の上で行われた葬送儀礼の祭祀に使われていたものです。
吉備地方では壺や、器台を弥生時代の墳丘墓の祭祀に用いることが多く、有年原・田中墳丘墓群葬られた人たちが、吉備と強いつながりを持ちながら、有年原の地を中心として強大な権力を誇っていたことが考えられます。
1号墳丘墓には陸橋部と突出部があるが、こうした出っ張りが発達して前方後円墳という墳形が誕生したのではと言われている。また、棺の周りの器台と壺はやがて円筒埴輪へと変化していく。こうしたことから、大和王権の成立に対する吉備地方の関与が推測されている。
船坂峠を越えると言葉が違うと言われるくらい、現代では文化を異にする岡山県と兵庫県だが、古代の西播磨は吉備王国の影響下にあったようだ。赤穂市と備前市がカキ文化圏として冬ににぎわうのと同じように境目がなかったのだろう。
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